私も人生初となる試験監督に抜擢され、監督として試験に参加。
私自身がセンター未経験者だったので会場の張りつめた空気にすごい緊張しました。
問題・解答用紙の配布および回収、用紙のカウント、受験者確認、写真表の確認、欠席者の確認、トイレ誘導、指示漏れの確認・・・
問題が生じないようスタッフ皆ピリピリムード。
『問題が生じる』=『マスコミの餌食』みたいな構図があるようで。
受験している学生の表情は真剣そのもので、『人生をかける』という気持ちが伝わってきました。
「受験」
私自身が高校生のときは12月まで部活をしていて(という言い訳)受験勉強はまったく捗らず、勉強時間の圧倒的不足によりセンター受験は断念しました。
浪人して医学部か工学部に・・・ なんて思ってましたが家庭の事情で浪人なんてするわけにもいかず。色々悩みました。
今思えばそんなモヤモヤした気持ちしか記憶にないんですよね。
「人生をかける」そんな気持ちがあったのかな~なんて思います。
結局自分の決断で「人生が決まった」かと言われると、ただ路線が決まったような感じで。
それでも乗り換えて別の路線に行くこともできるし。
人生なんて東京メトロ。
が、最終的には高校のときの担任の先生や友達から、そして自分で色んな情報収集して決断したあの日のことは今でも鮮明に覚えています。私は理学療法士になってよかったと心の底から思ってます。
キャリアの重ね方も色々。
現在は大学助手という立場でいま働いていますが、それはそれで楽しい。
色んな人間関係がみれて、教育について考えることができて。
研究も色んな相談を受け、自分も相談し。
ネットワークが広がり始めている今が凄い充実しています。
そう考えると仮に「受験」してどこかの大学に入学して・・・
別の出会いや人生があったと思えば、それはそれでワクワクしますが、
今とは別の自分がいたのだろうなと。
そして妻にも出会わなかったのだろうなと。
「人生をかける」その行動の結果「人生が決まる」。
この構図は分かるような気がします。
そういう意味では常にヒトは「受験」してるのかもしれませんね。
受験内容はヒトそれぞれ。
完全オリジナルの試験。
色んな選択肢を持ちながら、常に何かしらの影響を受け、意識的もしくは無意識に取捨選択し、決断と行動をとっている。そんな試験。
センター受験生をみながらそんな事思ってました(←監督しろよ)。
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