2人組で活動を始めました。
僕が楽曲を作り、ボーカル&ピアノ、
相方はコーラス&ギター、
アコースティックデュオですね。
ユニット名は…"シュー・フルール"
フランス語で"花野菜"(笑)
僕がお気に入りの岡村孝子さんのアルバム名を
そのままユニット名にするという暴挙!(笑)
相方…よくOKしたなと思います。
食い繋ぐためにアルバイトをしながら、
日々自分なりのルーティンを決めて練習、曲作り、
そして相方は高石市というちょっと離れたところで
実家暮らしだったのですが、週に1回電車を
乗り継ぎ足を運び、合わせの練習やデモテープ作り。
相方のご両親にも大変良くして頂き、
いつも夕飯をご馳走になっていました。
忘れられない思い出です。
僕も相方もどちらかというとオタク系ミュージシャンだったので、ライブは頻繁ではなかったものの、それなりにライブ活動もしていました。
観客3人とかありましたが(笑)それも良い思い出です。
知人のつてで、ブライダルプランでの歌の仕事を、
相方と一緒にさせてもらったこともありました。
しかし、相方も僕もバス(低音域)のパートが歌えず、
結果その仕事は1度きりだったと思います。
ハッキリ申し上げておきますが!
特に合唱やゴスペル系のお仕事では、
高い音より、より低い音が出る方が希少価値が高く、
重宝されます!
"自分は声が低いから…"と言っているアナタ!(笑)
もしかしたら歌に向いているかも…♪
高い音なんてある程度練習で何とかなるし、
方法論もあります。低い音は声帯の機能上、
残念ながら無理です………
この頃はライブで演奏するためということもあり、
洋楽曲よりも、邦楽曲をよく聴いていました。
玉置浩二さんなどもよく聴くようになり、
自分のボーカルスタイルの中に
取り込むようになりました。
その頃に、知人の勧めで、有線放送主催の
オーディションに出たことがきっかけで、
U-SENアーティストアカデミーという所に通うようになりました。
そこでの出会いも、今に繋がっている部分があります。
そこの先生は主にピアニストで歌も歌える、
というスタイルだったので、
ピアノのテクニックなどはよく指導を仰ぎました。
元々ショパンが好きで、我流で何曲か弾いていたのですが、この頃もよく練習しました。
結局「幻想即興曲」くらいまでしか弾いていませんが…
そこで出会った仲間の中には、今も親交のある仲間も居ます。もう20年近く前になるのか…。
その先生は北新地のお店でピアニストもされて居て、お誘い頂き演奏に行ったこともありました。
「何でも良いよ」ということだったので、
自分の曲や邦楽曲の弾き語りをしたのですが、
…………何でも良いわけがなく(笑)
お店のママに、そういう店での選曲や演奏について
お話を頂いた記憶があります。
僕は後に北新地で働くことになるのですが、
これが最初の苦い北新地でした。
そうこうしている中、ある日相方に、
"彼女に別れ話するより辛いわ…"
と言われながら、"シュー・フルールを解散したい"
と告げられます。相方もとても悩んでくれたようで…
その時はハッキリ言わなかったのですが、
相方はその後別でバンド活動を始めました。
僕は僕で、ソロとしてやっていくための
模索を始めます。
シュー・フルールは泣かず飛ばず、
世間に出ることはありませんでしたが、
僕にとっては大事な財産であり、
忘れ得ぬ思い出です。
サザンの「YaYa〜あの時代を忘れない」とか、
玉置浩二さんの「メロディー」なんかを
聴くと、胸に迫るものがあります。
相方はその後、芸人になると言って上京したきり、
今は連絡もとっていません。
悪かったのは、シュー・フルールとか
音楽性ではなく、僕だったのでしょう。
元気にしていますか。
僕は這いつくばって人知れず音楽を続けています。
あの頃と同じように貧乏で、しがない身なりです。
でも、あの頃があったおかげで、何とかやっています。
"シュー・フルール"…………
せめて"ソレイユ"←(孝子さんのアルバム名)
にしとけば……!!!!!
……同じか(笑)