ちょっともやもやしたこと | タマラ アクティベーター キョンの 『私を生きる!』

タマラ アクティベーター キョンの 『私を生きる!』

「タマラ」はあらゆる陽の素。
2002年にタマラを取り込める体となってから、目の前が色濃く、自分の輪郭がくっきりと変化してきました。
タマラは体を、そして何より心を元気にします!
誰でも望めば、アクティベーションを受けることができます。

タマラ アドバンストプラクティショナーのキョンです。

 

今日は、仕事仲間との電話の中で、

私の予定を優先させてもらおうとしたら、、、

相手の状況を聞いて、うっわ~と思い、、、

 

気が付けば、私があっちもこっちもやりましょう、みたいな話になっていた。

 

自分もいっぱいいっぱいなのに、

もっとやりくりすれば、つまり

休みを返上すればできる、と思ったのだ。

 

ま、いつもではないので良しとしよう。

 

昔から言われていた、仕事は忙しい人のところに、

更に集まるもの。

その言葉がいい意味で取れるときは良し、

被害者意識に陥りそうなら、Noを言うことにしている。

 

見ていられない、手助けしたい、のは自分。

手助け、というと、当事者とは思っていないということ。

 

それが良いか悪いかは別として、

私にはそうとしか感じられないのは事実。

それを無理やりに、ルールとして

当事者意識を持とうとしても無理なのだ。

 

ただし、そうであろうとなかろうと、

引き受けたことのパフォーマンスには責任を持つことを自負している。

 

今日、人との話の中で、意識がどうだとかいう話になったが、

当人がどんな意識を持とうが自由で、

ただ、同じ目標に向かう以上はここんとこは揃えましょうよ、

というだけの話ではないのか。

 

と、いうと、とってもクールな感じだけど、

全然そうではなくて、

 

やっぱり誰かの熱い思いに共鳴するわけで、

でも、共鳴しても、まったく同じ思いを持つことはないから、

ぶつかり合って、やりあって、

妥協も話し合いもしながら、

共に進もうと思えば進めるし、

 

そこは各人の選択に任されている。

 

最近よく思うのは、主体的であるか、そうでないかって、

自分一人でもそれをやるのかどうかに

究極のところ集約されるような気がする。

 

現実的には、まったく一人になることはないにしろ、

誰々さんがいるから、とか、誰々のために、

というのは、

 

行動する目的がそもそも違うのだろうなと思う。

 

行動の目的が違う多くの人を、

うまく、目指す自分の目的に向かわせるのが

リーダーとして優れた人なのではないか、と思う。

 

あれ~何の話だったっけ。

 

要は、私は今日も機嫌よく

自分の為に

 

仕事していようと思ったということ。