広辞苑によると、

 

批判とは

①物事の真偽や善悪を批評し判定すること。ひばん。 ②人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。哲学では、特に認識能力の吟味を意味することがある。

 

指摘とは

問題となる事柄を取り出して示すこと

 

とあります。

 

仕事をしていると、自分とは異なる意見や立場の方とディスカッションをしたり、同じ事象・現象に対して異なった見立てをしていて、それについて多面的に検討する場面が少なくありません。

 

この場面においては、互いの個人的な内面や考えを批判するのではなく、例えば選択したアプローチや支援方法などについて、なぜそれを選んだのか確認したり、それに伴うリスクについて検討したり、その考えならこのようなこちらの方法が最善ではないか、と指摘したりすることは通常起きるわけですし、それがよりよい結論を道日し出すために必要なプロセスなのですが、

 

時々そのような指摘や確認、ややもするとディスカッションすること自体に抵抗感を感じたり、批判と捉えて怒りや不安の感情が湧き、時には攻撃という行動に転じてしまう方もおられます。

 

日常の近しい人同士であれば、感情的なつながりもあるし、ディスカッションというよりも気持ちを受けとめてもらいたい、わかってほしい、というような情緒的な交流に主眼を置いているため、そのような行動につながってしまうことも不思議ではないし、自然なことだろうと思います。

 

しかし、専門職同士で、特にクライエントの人生に大きく関与するような立場の人同士にとって、クライエントの最善の支援のためにさまざまな角度からアセスメントやプランニングを行うこと、自らを含めて支援のあり方の検証を行うことは当然の責務なのですが、

 

そのような場においても指摘や検討を、自らへの批判と捉えてしまう方がいらっしゃると、非常に残念な気持ちになりますし、何のために園仕事をしておられるのだろう、どこを見ているのだろう、優先すべきはどこだと思っておられるのだろう、、、と複雑な気持ちにもなります。

 

もちろん、非常に忙しかったり、余裕がなかったり、何かしらの事情があるのかもしれませんし、その方なりに一生懸命であることもあることも理解はしています。

 

このようなこというとすぐに「あの人も頑張っているから」とか「良い人なんだから」と議論がすり替わってしまうことも有り、それもまた残念なことです。

 

もしその人に余裕がなかったり、必要と言われている「支援者を支援する体制」のようなものがなかったり、勤務上の問題などがあるなら、それはまた別の問題であり、クライエントの支援とは別の議論され、整備されるべき課題であって、

 

そのことがクライエントの支援から手を抜いたり、支援に必要な議論から離脱して良いい理由にはなりません。

 

プロとして仕事をし、プロとして対価をもらっているのであれば、プロとして引き受けるべき責任や重責、他者からの指摘も当然セットでしょうし、自分も含めて、時には自らの至らなさに悔しい思いや自己嫌悪になるような、そんなストレスも当然引き受けなくてはならないものだと思います。

 

そういうものはいらなくて、誰かの役に立っているという自己有用感や自己満足、自己実現のためにだけプロとしての立ち位置を求めるのはいかがなものかと感じてしまいます。

 

日本には資格を取得したり、資格のための知識教育や現場での実習という名の少しの経験はあるけれど、専門職育成は不十分だと聞いたことがあります。

 

プロはプロとしての知識や経験はもちろん大事ですが、倫理や規範、プロ意識の醸成なども同時に必要なんだろうと感じます。