いろいろな組織と仕事上のやりとりをするときに、問題が起きたときの対応について温度差というか、考え方の違いを感じることがあります。

 

何か大きな問題や課題が見えた際は、まずその関係者が真摯に向き合い、しっかりとコミュニケーションをとり、時には互いに譲歩したり、主張していたこととが異なる新たな一手を見いだしたり、知恵を絞り合って、最高かどうかはわからないけれど、最大限の良い方法をみつけようとしていくことが大事だと思っています。

 

特に、関係者の主張が異なったり、見えているものが違っていたり、認識のズレや目標地点の違いがあるときに、完全に誰かの思惑が通ることは現実的には難しいし、けれど、最初からそれを諦めるのではなく、少しでも良い方法を見つけるプロセスを大切にしながら、双方向のコミュニケーションのなかで落とし所を探っていくのだろうと思います。

 

そんなやりとりをする際に、時々その組織の一番偉い方や責任をとれる立場の方をあえて話し合いの場にださず、温存される組織があります。

 

主な理由は、「最後の砦がはやくに出過ぎると、その人とうまくいかなかったときにもう次の手がない」というようなもので、「切り札」を残しておきたい、「切り札」があるという安心感を持ちながら交渉に臨みたい、という不安や優位に立ちたい心理が働くのだろうと思います。

 

もちろんそういう不安や優位に立ちたい気持ちは理解できないわけではないし、人として自然なものでしょう。

 

けれど、昔の時代ならともかく、このスピード感の中で物事が進んで行く時代、結論をすぐに出さなければ、後手後手となれば余計に不信と炎上をもたらす時代に、そのやり方はいかがな者かと思うことが多々あります。

 

実際、責任をとれる人を温存していることに対して、余計不信感を抱かれたり、「その程度だと思われた」「軽んじられた」と感じて、問題が悪化することは少なくありません。

 

切り札論は、すでに相手には見抜かれていて、逃げ腰であることもばれているのです。

 

であれば、「もし何かあったら、、、」「万が一うまくいかなかったら、、、」と逃げ道を残して向き合うのではなく、最初からちゃんと向き合う方が良い。

 

そして、その万が一の状況になったら、それはきっと、その組織内の素人だけではどうしようもない問題なのであり、法律家や外部専門家の力を借りるべき事態なんだろうと思います。

 

学校であれが「学校として」とう主語を使い、覚悟と責任を持って発言でき、判断できる学校長が、会社であれば、その部門の判断をできる部長・課長が、もっと大きな問題なら「会社として」の方向性を判断できるトップが、ちゃんと逃げずに向き合う姿勢、説明することが大切なんだろうと思います。

 

そこに誠意を感じるかどうか。

 

結局人と人の間に起きるトラブルやストレスフル状況は、人と人の感情のもつれであることがほとんどです。

 

退路も残された選択もないなかで、必死に何かを訴えている人に対して、自分たちだけ退路を残して向き合おうというその思惑は、相手に伝わってしまうのだろうと思います。

 

もちろん、すべての案件がそうとはいえませんし、事情も状況もことなるでしょう。

 

けれど、学校や会社の中で起きるようないざこざや、誤解や想いのズレから起きるトラブルは、やはり真摯な姿勢がとっても大事なんだろうと思います。

 

そういう事態にならないように、日ごろからちゃんと誠意を持って向き合い、コミュニケーションを図りつつ、もめること、ずれること、軋轢を生むことを恐れずに、丁寧に向き合う方が結果としてうまくいくのではないかと思っています。