カーチュン・ウォン指揮、日本フィルによるショスタコーヴィチ交響曲第7番《レニングラード》を聴いた。
この曲をライブで聴くのは今回が初めてだった。
日本フィルについては、1980年頃に聴いていた時代とは隔世の感がある。以前、カーチュン・ウォン指揮のブルックナー交響曲第9番を聴いたとき、その充実した響きに驚かされた。今回も第1楽章の冒頭で弦が鳴った瞬間、「ブルックナー9番のときと同じだ」と感じた。弦に厚みがあり、オーケストラ全体の響きの土台がしっかりしている。
冒頭の木管のソロには若干の乱れを感じたが、その後は素晴らしかった。
第1楽章の聴きどころである長大なクレッシェンド。同じ旋律を繰り返しながら次々と楽器が加わり、音色を変化させながら徐々に巨大な音響へと発展していく。その過程が実に鮮やかだった。金管も素晴らしく、打楽器も一糸乱れない。そしてフォルテになっても弦が埋もれず、しっかりと全体を支えている。この弦の厚みが今日の演奏の大きな魅力だったと思う。
第3楽章は美しかった。第1楽章で感じた弦の厚みが、ここでは音楽の深さと美しさにつながっていた。大音響を鳴らせるだけのオーケストラではないことを感じさせる演奏だった。
そして第4楽章。以前CDで聴いたときには、なぜか静かに終わるような印象が記憶に残っていた。しかし実演で聴けば、フィナーレは明確な強奏である。録音では十分に感じ取れなかった弦、金管、打楽器が一体となった音圧を、ライブでは身体で感じることができた。
最近、読響を聴いていても弦の充実を強く感じる。今年6月には、演奏が始まる前のチューニングを聴いただけで「何か音が違う」と感じたほどだった。先日の読響のマーラー第6番でも、弦と低域の充実が印象に残った。
しかし今日の演奏を聴くと、弦だけなら日フィルのほうが上かもしれないとさえ感じた。
もちろん、一度の演奏だけでオーケストラそのものを比較することはできない。日フィルのマーラーを聴いたときには、今日ほど感動しなかった。結局、オーケストラの力量だけではなく、作品と指揮者、そしてオーケストラとの相性が大きいのだろう。
ブルックナー第9番、そして今日のショスタコーヴィチ第7番。カーチュン・ウォンと日本フィルの組み合わせには、厚い弦を土台として大きな音楽を構築するときに、特別なものがあるように思う。
1980年頃の日フィルを知る者としては、今日の演奏を聴きながら、日本のオーケストラはいつからこれほど弦が充実したのだろう、そんなことまで考えさせられた一夜だった。
