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読売日本交響楽団の響きに魅せられて

 高校時代にクラシック音楽に親しみ始めた当初、主にレコードを通して聴いていました。カラヤン、ワルター、セル、ライナー、オーマンディといった指揮者の録音に触れながら、音の流れや響きの美しさへの感覚が次第に形づくられていきました。そうした中で迎えた1977年、渋谷公会堂で読売日本交響楽団の演奏会に初めて接しました。モーツァルト《後宮からの逃走》序曲、ホルン協奏曲第1番、Rシュトラウス ホルン協奏曲1番、ドヴォルザーク交響曲第8番というプログラムで、生のオーケストラ体験はそれまでの音楽体験とは本質的に異なるものでした。特に弦楽器の響きが身体に染み通るように届き、音が立ち上がり空間へ広がっていく感覚は鮮烈で、レコードでは決して得られない、身体に伝わる音の広がりを実感しました。その一音一音が単独で響くのではなく、連なりながら全体を形づくっていく感覚は、それまでの聴き方を大きく変えるものでした。そして以後、読売日本交響楽団の演奏会に頻繁に足を運ぶようになりました。指揮者やプログラムによって響きや音の重なり方が微妙に異なり、音楽が一回ごとの出来事として立ち上がってくることを実感するようになりました。さらに、同じ弦楽器でも響きの厚みや透明感の違いに耳を傾ける楽しさを知り、聴くこと自体の奥行きが深まっていきました。中でも、東京文化会館で聴いたハインツ・レーグナー指揮によるモーツァルト交響曲第41番は特に印象深く、弦楽器の響きが絹糸のように連なりながら溶け合い、そのホール全体を包みこむ澄んだ響きは秋の空を思わせ、静かな高揚感とともに深く心に残る忘れがたい演奏会であった。今でもあの日の第4楽章における弦楽器の響きの美しさが心に残り続けている。その響きを求めて定期演奏会の会員となり、以後も通い続けている。読売日本交響楽団の音に魅せられ、これからも聴き続けていきたい。

12月12日 NHK FMで聞いたラトル指揮バイエルン放送交響楽団のモーツァルトの演奏描写

はじめに

サイモン・ラトル指揮によるモーツァルト《交響曲第39番》を聴いて、私は強い違和感を覚えた。単なる「好みの違い」ではない。音楽の根幹――流れ、呼吸、身体性――が損なわれていると感じたからだ。本稿では、その理由を整理し、あえて明確な批判として提示したい。

1. テンポ――“動いている”が“進んでいない”

ラトルのテンポ設定は一見して活発だ。しかしそれは推進力ではなく、局所的な加速と減速の連続に過ぎない。結果として音楽は前に進まず、細切れの運動を繰り返す。モーツァルトに必要なのは運動神経ではなく、自然な歩行である。


2. アクセント――拍が音楽を殴っている

弱拍が弱拍として機能せず、アクセントが常に前に出る。これは拍感の明確化ではなく、拍による支配だ。旋律は拍に従属し、歌う自由を失う。結果、旋律線は“線”であることをやめ、点列に分解される。


3. 強弱――修辞が音楽を覆い隠す

フォルテとピアノの対比は誇張され、fpやsfzは意味を説明するための標識として多用される。だが強弱は感情の翻訳装置ではない。呼吸の結果として自然に生まれるものであるべきだ。ここでは強弱が前面化し、音楽そのものが後退している。


4. 間(ま)――沈黙が流れを断ち切る

休符や間が「意味」として強調されすぎている。沈黙は緊張を生むが、流れを止めてはならない。本演奏では沈黙が音楽を遮断し、フレーズの連続性を破壊する。耳は次の音を待つのではなく、身構えることを強いられる。


5. 第三楽章(メヌエット)――踊れない踊り

決定的なのは第三楽章だ。メヌエットは踊りである。だがここには身体が拒否する重さがある。拍は踏みつけられ、トリオは皮肉として誇張される。優雅さも、田園的な可憐さもない。これは性格付けではなく、性格の押し付けだ。


6. 比較としてのワルター

ブルーノ・ワルターのモーツァルトには、説明がない。だが音楽は流れ、自然に次へとつながる。拍は見せず、呼吸が全体を支配する。結果として、音楽は“うるさく”ならない。委ねられる音楽がそこにある。

結論――これはモーツァルトではない

本演奏の問題は、古楽的か否かではない。音楽が語りすぎ、流れを失っていることだ。モーツァルトは解釈を示すための素材ではない。人間の呼吸とともに、自然に生きる音楽であるべきだ。

私は、この39番をモーツァルトとは呼ばない。巧みで、知的で、整っている。だが、音楽が流れていない。それだけで、批判するには十分である。


※本稿は特定の指揮者個人を貶める意図ではなく、演奏様式がもたらす音楽的帰結を論じたものである。

東京には多くのプロ・オーケストラがある。

 N響、読響、都響、東京フィル、日フィル、東京交響楽団、新日本フィル、東京シティ・フィル、パシフィックフィルハーモニア東京などである。私自身も読響の定期会員で、日フィルや都響などの演奏会にも足を運んでいる。しかし、ふと不思議に思った。これだけ多くのオーケストラがあり、毎日のように東京のどこかで演奏会が開かれている。一体、誰がこれだけの演奏会を聴いているのだろう。

■ クラシックの聴衆はどのくらいいるのか
 今回調べて分かったのは、演奏会の入場者数と、クラシック音楽を聴いている人の実人数は同じではないということだった。在京主要9オーケストラだけでも、2024年度には合計約1,300公演が行われ、延べ約166万人が来場している。しかし、これは166万人の異なる人が来ているという意味ではない。私自身がそうであるように、クラシックの聴衆には年間何回も演奏会へ行く人がいる。定期会員なら同じオーケストラを年に何度も聴くし、さらに別のオーケストラにも行く。つまり東京のクラシック市場は、巨大な人数の人が年に一度来場するというより、一定数の愛好家が繰り返し演奏会へ足を運ぶことで成立している面が大きい。年齢層も比較的高い。時間と可処分所得にある程度余裕のある中高年層が重要な顧客になっている。

 当初私は、東京には富裕層が多いこともクラシック市場を支えているのではないかと考えた。

野村総合研究所の推計では、純金融資産1億円以上の「富裕層・超富裕層」は全国で約165万世帯、5,000万円以上まで広げると約568万世帯になる。しかし、クラシック音楽の市場を考える場合、富裕層だけを見るのは適切ではない。年間所得が特別高くなくても、旅行ショッピングなどと同じように、自分の好きなものに継続的にお金を使う人がいるのではないか。クラシック音楽を聴くことを趣味の一つにしている層が存在するのではないか。

 問題は、このような固定客が20年後、30年後にも同じ規模で存在するのか、ということだ。

現在の主要な聴衆が高齢化していけば、次の世代が同じように年間何度も演奏会へ来るとは限らない。ここから、オーケストラの経営そのものに興味が出てきた。

■ オーケストラはチケットだけで経営できるのか

 オーケストラは80~100人前後の専門職である演奏家を抱える。さらに事務局があり、ホールを借り、指揮者やソリストを招聘し、大型楽器を運搬する。非常に固定費の大きな組織である。そこで、日本オーケストラ連盟の2024年度資料などから、在京オーケストラの経営規模を調べてみた。

主な楽団は次のようになっていた。

*NHK交響楽団
年間収入 約33.2億円 演奏収入 約15.9億円楽員 約100人 年間公演116回

*読売日本交響楽団 年間収入 約20.1億円 演奏収入 約8.1億円 楽員 約90人 年間公演 96回

*東京フィルハーモニー交響楽団 年間収入 約19.2億円 演奏収入 約17.4億円 楽員 約130人 年間公演 369回

*東京都交響楽団 年間収入 約18.4億円 演奏収入 約5.1億円 楽員 約90人 年間公演 112回

*日本フィルハーモニー交響楽団 年間収入 約15.1億円 演奏収入 約9.7億円 楽員 82人 年間公演 136回

*東京交響楽団 年間収入 約13.2億円 演奏収入 約10.3億円 楽員79人年間公演 154回

*新日本フィルハーモニー交響楽団 年間収入 約12.9億円 演奏収入 約9.8億円 楽員90人 年間公演 150回 

*東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 年間収入 約4.1億円 演奏収入 約3.5億円 楽員56人 年間公演100回

*パシフィックフィルハーモニア東京 年間収入 約3.0億円 演奏収入 約2.7億円 楽員 36人 年間公演72回 パシフィックの楽員数は資料調査時点の数字で、その後に大量退団が起きているため、現在の実勢とは分けて考える必要がある。

こうして並べると、同じ「在京プロオーケストラ」といっても、規模がまったく違う。

■ 誰がオーケストラを支えているのか
 さらに面白かったのが、資金の出所である。

N響は公益財団法人であって国営オーケストラではない。しかしNHKとの強い関係があり、支援組織などから約14億円規模の収入がある。

 読響も公益財団法人で、読売グループという大きな背景を持つ。2024年度には約10.3億円の民間支援が計上されている。

 都響の場合はさらに明瞭だった。年間収入約18.4億円に対して演奏収入は約5.1億円。東京都から約10.2億円規模の支援を受けている。

つまりN響、読響、都響には、それぞれNHK、読売グループ、東京都という強い基盤がある。

 一方、東京フィルはかなり違う。年間収入約19.2億円のうち、演奏収入が約17.4億円。しかも年間369公演である。約130人という大人数の楽員を抱えながら複数の編成を動かし、オペラ、バレエ、依頼公演などを数多く引き受ける。いわば「演奏して稼ぐ」比率が非常に高いオーケストラである。

■ チケット収入だけではない

 日フィル、新日本フィル、東京交響楽団などの民間オーケストラは、さらに複数の収入源を組み合わせている。

新日本フィルの2024年度収入構成を見ると、

出演料 44% チケット収入 25% 補助金・助成金 15% 民間支援 6% 協賛金 5% その他 5%となっていた。チケット収入は全収入の約4分の1なのである。 定期演奏会が満席なら経営できる」という単純な世界ではない。日本オーケストラ連盟加盟40団体全体でも、2024年度の収入は約290.9億円。そのうち演奏収入は約159.0億円だった。残りは民間支援、自治体、国・基金、助成財団、寄付などによって支えられている。

■ 20年後、30年後を考えてみる
 現在は東京という巨大市場がある。企業が集中し、大規模なホールもあり、クラシック音楽を長年聴いてきた固定客もいる。しかし20年後、30年後はどうだろう。人口減少、聴衆の高齢化、若い固定客の確保。さらに人件費、ホール代、楽器輸送費、公演制作費、海外からの指揮者やソリストの招聘費も上昇する。企業協賛や自治体からの支援も、現在と同じ規模で続くとは限らない。そこで、将来の選択肢の一つとして「経営統合」を考えてみた。

■ 経営統合を考えてみた

 ここでいう経営統合は、二つのオーケストラを一つにして、一方をなくすという意味ではない。例えば日フィルと新日本フィルなら、それぞれの楽団名、楽員、定期演奏会、音楽的な個性は残す。一方で、経理、人事、広報、チケット販売、スポンサー営業、IT、事務所、楽譜管理、購買などの経営部門を共通化する。つまり、「一つの経営組織の中に二つのオーケストラを置く」という考え方である。海外を調べると、一つの運営組織が複数のオーケストラや合唱団を運営する例もあった。そこで実際の数字を使って簡単なシミュレーションをしてみた。

■ 日フィル+新日本フィル

2024年度の日フィルは、収入 約15.12億円 支出 約15.25億円 楽員 82人 事務局 約33人 年間公演 136回

新日本フィルは、収入 約12.86億円 支出 約12.40億円 楽員90人  事務局 約25人 年間公演 150回 単純合算すると、収入 約27.98億円支出 約27.65億円 楽員 172人 事務局 58人 年間公演 286回

となる。ここで考えたのは、楽員を減らすことではない。重複する管理部門を共通化する。仮に長期的な自然減などによって事務部門10人相当を合理化し、一人当たりの総コストを年間700万円と仮定すると約7,000万円。さらに事務所、ITシステム、広告、購買などの共同化で年間3,000万円程度を削減できると仮定すれば、年間約1億円になる。これはもちろん実際に1億円削減できるという数字ではない。経営統合の可能性を見るために置いた仮定である。単純合算では約3,000万円の黒字相当なので、この仮定なら年間約1.3億円の余力が生まれる計算になる。

■ 日フィル+東京交響楽団なら同じ方法で日フィルと東京交響楽団を合算すると、収入 約28.28億円 支出 約28.39億円 楽員 161人 事務局 57人 年間公演 約290回 となる。単純合算ではほぼ収支均衡である。仮に管理部門などの共同化によって年間1億円程度の改善効果が得られるなら、約9,000万円の余力が生まれる。これもあくまでシミュレーションである。

■ オーケストラを減らすための統合ではない
 ここで重要なのは、演奏家を減らすことを目的としていないことである。例えば日フィル+新日本フィルなら172人の楽員がいる。これを一つの巨大オーケストラにする必要はない。日フィルと新日本フィルという二つの演奏組織を残せば、一方が定期演奏会を行っている夜に、もう一方が別会場で依頼公演を行うこともできる。逆に巨大編成作品では、必要に応じて合同編成も可能になる。 東京フィルが約130人の楽員を抱えながら年間369公演を行っていることを考えると、大人数だから必ずしも非効率とは限らない。複数の編成を高稼働させる方法もある。したがって、「オーケストラを減らすための経営統合」ではなく、「現在あるオーケストラを将来も残すために、経営を共同化する方法はないのか」という発想である。もちろん、実際には雇用条件、労働組合、スポンサー、資産・負債、ホールとの契約、それぞれの楽団の歴史など多くの問題がある。だから統合すべきだと結論づけるものではない。ただ、20年、30年先を考えるなら、研究する価値のある選択肢ではないかと思った。
 各オーケストラの規模を比較しているうちに、東京シティ・フィルが気になってきた。正規楽員は約56人。N響、読響、都響などと比較すればかなり少ない。それでも50年以上活動を続けている。しかも小編成作品だけではなく、ブルックナーやマーラーなどの大編成作品も取り上げている。当然、作品に応じて客演奏者、いわゆる「トラ」を加える。2027年3月にはマーラーの交響曲第3番とブルックナーの交響曲第8番が予定されている。正規楽員約56人のオーケストラが、多数の客演奏者を加えてどのような演奏をするのか。
 そこに興味が出てきた。東京には音楽大学を卒業し、国内外で研鑽を積んだフリーランスの演奏家も多数いる。常設オーケストラの楽員だけではなく、客演奏者を含めた演奏家層そのものが以前より厚くなっている可能性もある。 まとめていくのは指揮者の仕事であろう。常任の高関は桐朋学園で学び、1977年にカラヤン指揮者コンクール・ジャパンで優勝。その後ベルリンへ留学し、ヘルベルト・フォン・カラヤンのアシスタントを務めた。1981年にはタングルウッド音楽祭でレナード・バーンスタイン、小澤征爾らに学び、1983年にはニコライ・マルコ国際指揮者コンクール第2位、1984年にはハンス・スワロフスキー国際指揮者コンクールで優勝している。東京シティ・フィルでは2015年から常任指揮者を務めており、すでに10年以上の関係になる。正規楽員約56人を核に、作品によって多数の客演奏者が加わるシティ・フィルを、高関がどのようにまとめているのか。カラヤンのもとで学んだという経歴も含めて興味がある。まだ実際に聴いていないので評価はできない。まず10月10日の「展覧会の絵」を聴いてみようと思う。

■ おわりに
 今回調べてみて改めて感じたのは、オーケストラという組織の不思議さである。100人近い演奏家を抱える楽団もあれば、50人程度の常設楽員で50年以上活動してきた楽団もある。大企業や自治体の支援を大きな柱とするところもあれば、年間数百回演奏することで収入を得るところもある。同じ「オーケストラ」でも、成り立ちも経営方法もかなり違っていた。そして、現在うまくいっている方法が20年、30年後にもそのまま通用するとは限らない。 だから経営統合についても考えてみた。目的はオーケストラの数を減らすことではない。むしろ逆である。私は日本のオーケストラが好きだから、できるだけ多くの楽団に残ってほしい。
 そのためなら、それぞれが単独で存続する方法だけではなく、経営を共同化する方法、小さな常設編成を核にする方法、東京フィルのように複数編成を高稼働させる方法など、いろいろな可能性を考えてもよい時期ではないのか。

今日は横浜みなとみらいホールで日本フィルを聴いた。指揮はオッコ・カム、ピアノは河村尚子。前半がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、後半がストラヴィンスキーの《春の祭典》。
席は2階正面。舞台を見た第一印象は「遠い」。ところが音が出てみると、予想以上に良い響きだった。
ラフマニノフでは、河村尚子のピアノの一音一音の粒がよく分かる。それでいてオーケストラとのバランスも良く、ピアノが埋もれることがない。
河村の演奏で印象に残ったのは「ため」だった。フレーズの中でしっかり時間を取り、そこから次へ流していく。単にテンポを動かしているのではなく、音楽の呼吸としての「ため」が感じられた。
オッコ・カムの指揮は、細部を細かく作り込むというより、リズムと音楽全体の流れを重視しているように見えた。少なくとも私の席から見ている限り、金管に対して目立った指示を出しているようには見えない。それでもオーケストラ全体のバランスが非常によく整っている。
ラフマニノフの第1楽章では木管が少し気になった。特にフルートとファゴットに多少の荒さを感じた。一方、終楽章はよく決まり、全体として流れの良い演奏だった。
河村尚子のアンコールはショパンの遺作。ラフマニノフを弾き終えた後の静かなショパンも印象に残った。
休憩後、《春の祭典》になると舞台は一変した。ホルン8本、コントラバス7本を含む大編成である。
注目していたのは冒頭のファゴット。先日、日本フィルの《レニングラード》でも聴いた女性奏者が今日も吹いていた。
結果は合格。多少の荒さはあったが、何より音色が良かった。《春の祭典》冒頭の特殊な高音域でも、その音色には魅力があった。
そして今日あらためて驚いたのが、日本フィルの金管だった。
《春の祭典》という難曲で、私が聴いた限りノーミス。ホルンは8本。それだけの金管が強奏しても金管だけが突出することがなく、木管、弦、打楽器とのバランスが崩れない。
日本フィルは金管が強い。
カムのリズムと流れを重視する音楽作りも、《春の祭典》では特によく機能していた。複雑な変拍子が続いても音楽が停滞せず、巨大な編成を一つの流れとして前へ進めていく。
今日のカムを聴いて最も印象に残ったのは、やはり「バランス」だった。前半のラフマニノフでも、後半の《春の祭典》でも、編成の大きさがまったく違うのに全体の見通しが良い。
一つ物足りなかったのはコントラバスだった。7本並んでいたが、2階正面では期待したほど低弦の厚みを感じなかった。
先日、サントリーホールで日本フィルの《レニングラード》を聴いたときには、いつもの席で低弦を十分に感じられた。したがって日本フィルの低弦そのものというより、みなとみらいホールの2階正面という座席位置の影響もありそうだ。
そして最後のアンコール。
シベリウス《アンダンテ・フェスティーヴォ》。
最初はチャイコフスキーかラフマニノフかと思った。それほど弦の響きが豊かで美しい。弦楽器だけで静かに音楽が進み、最後にティンパニが加わる。
《春の祭典》の巨大な編成と強烈なリズムを聴いた直後だけに、この弦の美しさがいっそう際立った。
今日、日本フィルの金管の強さをあらためて確認したが、最後には「日本フィルの弦もこんなに美しい音を出すのか」と思わされた。
遠いと思った2階正面も、終わってみれば印象が変わった。ピアノの粒立ちがよく分かり、大編成でも全体のバランスを把握しやすい。低弦の重量感には物足りなさが残ったものの、オーケストラ全体を聴くには良い席だった。
河村尚子の「ため」、オッコ・カムのリズムと流れ、日本フィルの強力な金管。そして最後に残った、シベリウスの美しい弦。
なかなか充実した演奏会だった。

読響を聴く――美しいシベリウス、そして最後に残った残念さ
 本日はサントリーホールで読売日本交響楽団を聴いた。指揮はユライ・ヴァルチュハ。前半はシベリウスのヴァイオリン協奏曲、独奏はセルゲイ・ハチャトゥリアン。後半はショスタコーヴィチの交響曲第10番。

今日、まず特筆したいのはシベリウスだった。
 ハチャトゥリアンのヴァイオリンは、とにかく音色が美しい。染み入るような響きがありながら音量も十分で、オーケストラを背景にしても存在感が失われない。そして表情が実に豊かだった。パンフレットには使用楽器がストラディヴァリウスであることが記されていた。もちろん楽器だけで音色が決まるわけではないが、優れた楽器と奏者が一体となって生まれる響きなのだろう。強く鳴らしても硬くならず、弱音になっても音の芯が失われない。今日もっとも心に残った演奏だった。
 後半のショスタコーヴィチ第10番では、読響の音色の美しさを改めて感じた。全体として響きが柔らかい。特に木管のアンサンブルが美しく、オーボエ、クラリネット、ファゴットのソロが印象に残った。個々の楽器が浮かび上がりながら、オーケストラ全体の響きから突出しない。読響の魅力の一つだと思う。
 一方、残念だったのがホルンだった。第3楽章を中心に重要なソロが何度も現れるが、何度か音が上ずった。私は読響の定期会員になって1年以上になるが、ホルンはいつも安定しているという印象を持っていた。8月の演奏でも良かった。それだけに今日は「次は大丈夫だろうか」と気になってしまった。
金管全体のアンサンブルそのものは良かった。しかし、安心して音楽に身を委ねられなかったのが惜しい。
 もう一つ、今日はいつもと座席が違った。普段は2階右側だが、今日は2階センター。一般的には全体のバランスを聴きやすい席なのだろうが、私にはいつもの右側のほうが好みに合っているようだ。
 右側ではコントラバスが何本も重なって鳴る感覚、低弦の厚みを強く感じる。今日はそれがあまり感じられなかった。ザルツブルクでベルリン・フィルやウィーン・フィルを聴いたときに感じた、あの厚い低音。私はオーケストラを聴くとき、低弦の存在感をかなり重視しているらしい。今回の席の違いで、それがよく分かった。
 そして最後に、もっとも残念だったこと。
ショスタコーヴィチ第10番が終わり、ヴァルチュハはまだ手を下ろしていなかった。ホールには最後の響きと緊張が残っていた。その瞬間、「ブラボー!」。フライング・ブラボーだった。
 声が入った瞬間、ヴァルチュハは手を下ろしてしまった。本当はもう少し余韻を保ちたかったのではないだろうか。もちろん本人にしか分からない。しかし少なくとも、指揮者がまだ演奏を終える姿勢を解いていないうちに、客席側からその時間を断ち切ってしまった。これは残念だった。
 読響の定期では、こういう経験はほとんどない。マーラーの交響曲第9番を聴いたときも、聴衆は最後の音が消えてから静かに待っていた。先日聴いた日本フィルの定期でも同様だった。演奏会では、最後の音符が鳴り終わった瞬間に音楽が終わるとは限らない。残響が消え、指揮者が手を下ろすまでの数秒間。その沈黙も含めて一つの演奏なのだと思う。
 今日の演奏には美しいところがたくさんあった。ハチャトゥリアンのシベリウス、読響の柔らかな響き、そして美しい木管。だからこそ、最後の数秒を静かに味わいたかった。
 そんな、少し残念な余韻を残した演奏会だった。

カーチュン・ウォン指揮、日本フィルによるショスタコーヴィチ交響曲第7番《レニングラード》を聴いた。
この曲をライブで聴くのは今回が初めてだった。
日本フィルについては、1980年頃に聴いていた時代とは隔世の感がある。以前、カーチュン・ウォン指揮のブルックナー交響曲第9番を聴いたとき、その充実した響きに驚かされた。今回も第1楽章の冒頭で弦が鳴った瞬間、「ブルックナー9番のときと同じだ」と感じた。弦に厚みがあり、オーケストラ全体の響きの土台がしっかりしている。
冒頭の木管のソロには若干の乱れを感じたが、その後は素晴らしかった。
第1楽章の聴きどころである長大なクレッシェンド。同じ旋律を繰り返しながら次々と楽器が加わり、音色を変化させながら徐々に巨大な音響へと発展していく。その過程が実に鮮やかだった。金管も素晴らしく、打楽器も一糸乱れない。そしてフォルテになっても弦が埋もれず、しっかりと全体を支えている。この弦の厚みが今日の演奏の大きな魅力だったと思う。
第3楽章は美しかった。第1楽章で感じた弦の厚みが、ここでは音楽の深さと美しさにつながっていた。大音響を鳴らせるだけのオーケストラではないことを感じさせる演奏だった。
そして第4楽章。以前CDで聴いたときには、なぜか静かに終わるような印象が記憶に残っていた。しかし実演で聴けば、フィナーレは明確な強奏である。録音では十分に感じ取れなかった弦、金管、打楽器が一体となった音圧を、ライブでは身体で感じることができた。
最近、読響を聴いていても弦の充実を強く感じる。今年6月には、演奏が始まる前のチューニングを聴いただけで「何か音が違う」と感じたほどだった。先日の読響のマーラー第6番でも、弦と低域の充実が印象に残った。
しかし今日の演奏を聴くと、弦だけなら日フィルのほうが上かもしれないとさえ感じた。
もちろん、一度の演奏だけでオーケストラそのものを比較することはできない。日フィルのマーラーを聴いたときには、今日ほど感動しなかった。結局、オーケストラの力量だけではなく、作品と指揮者、そしてオーケストラとの相性が大きいのだろう。
ブルックナー第9番、そして今日のショスタコーヴィチ第7番。カーチュン・ウォンと日本フィルの組み合わせには、厚い弦を土台として大きな音楽を構築するときに、特別なものがあるように思う。
1980年頃の日フィルを知る者としては、今日の演奏を聴きながら、日本のオーケストラはいつからこれほど弦が充実したのだろう、そんなことまで考えさせられた一夜だった。

今夜はサントリーホールで、読売日本交響楽団の定期演奏会。ユライ・ヴァルチュハの指揮で、マーラーの交響曲第6番《悲劇的》を聴いた。
まず印象に残ったのは、弦楽器が実によく鳴っていたことだ。「よく響いていた」というより、「よく鳴っていた」という表現のほうが近い。
特に低域がしっかりしている。そのためフォルテになったとき、単に音量が大きくなるのではなく、オーケストラ全体が下から持ち上がってくる。低弦に十分な厚みがあるからこそ、フォルテがフォルテらしい。マーラーの大編成を聴く醍醐味は、こういうところにあるのだと思う。
今日はホルンが9本並んでいた。この大きなホルン群が中低域に厚みを加え、その上にトランペットが乗る。特にトランペットの音色が美しかった。金管を力任せに鳴らして迫力を作るのではなく、音色を保ちながら十分に鳴っている。このあたりも好ましかった。
残念だったのは第3楽章。ここでは金管全体のバランスが崩れ、いくつかのミスも目立った。それまでの充実した響きが良かっただけに、なおさら気になった。
しかし第4楽章では持ち直した。長大な終楽章を通して再びオーケストラのまとまりが戻り、フィナーレは良い締めくくりとなった。
今日の演奏を振り返って一番残っているのは、やはり低域の充実したオーケストラの音である。
弦がよく鳴り、その上にホルンと金管が積み重なる。だから大きな音が単なる大音量にならない。
フォルテが、フォルテらしい。
今夜のマーラー6番を一言で表すなら、そんな演奏だった。

本日のコンサートは、単なる「大編成・大音量」の演奏ではなく、巨大な音響を極めて高精度に制御した演奏でした。

前半の「パガニーニの主題による狂詩曲」では、辻井伸行のピアノが予想以上に強靭でした。音量が大きく、アタックも鋭い。しかし打鍵が荒れず、ffでも音芯が潰れません。単なる叙情派ではなく、非常に“押し出し”の強いピアニストだと改めて感じました。ラフマニノフの悪魔的な変奏性やリズム感がよく出ていました。

後半のマーラー「交響曲第6番」は圧巻でした。

まず印象的だったのは、コントラバス8本を含む巨大編成から生まれる異常な重量感です。しかし、その重さは鈍重ではありません。テンポはむしろ小気味よく速めで、全体が強い推進力を持って前進していきます。それでいて全く乱れませんでした。

普通、マーラー6番で、大音量・速いテンポ・分厚い低音が揃うと、音響は飽和しやすくなります。しかし今日の演奏は、どれだけ鳴っても視界が濁りませんでした。

タルモ・ペルトコスキの指揮は、巨大音響を感情で押し切るのではなく、リズムと構造で組み上げるタイプでした。だから音楽が止まりません。重いのに進む。巨大なのに俊敏。その結果、マーラー6番特有の“鬼気”や“狂気”が、停滞した悲劇ではなく、運動するエネルギーとして現れていました。

そしてトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の実力にも驚かされました。

フランスのオーケストラという先入観からは想像以上に、中低音が分厚く、それでいて巨大音響でも各声部が明瞭でした。ffでも崩壊せず、厚いのに透明、重いのに俊敏という、非常に高度なサウンドでした。

総じて本日の演奏は、圧倒的音量、重量級低音、速いテンポ、生きたリズム、精密なアンサンブル、鬼神的なマーラーが高い次元で共存した、極めて現代的かつ成功したマーラー6番でした

 

前半のモーツァルトでは、藤田真央の演奏がとても自然に感じられました。技巧を強く押し出すというより、オーケストラと呼吸を合わせながら曲全体の雰囲気を大切にしているように聴こえ、音色も柔らかく、どこか穏やかな印象がありました。演奏からは本人の落ち着いた人柄まで伝わってくる気がし、アンコールの《マイスタージンガー》も、派手に盛り上げるというよりコンサート全体の空気を壊さない選曲だったように思います。

後半の《Symphony No. 7 in E major》では、とにかく響きの厚みが印象に残りました。特に弦楽器の響きが豊かで、オルガンのように空間を満たしていく感覚があり、一方で金管は強奏でも過度に突出せず、全体の響きの中に自然に収まっていたように感じられました。

また、チェロを右側に置いた対向配置や、後方に並んだ8本のコントラバスの効果も大きかったのか、低音が非常に安定して聴こえました。リズムは比較的引き締まっていて、テンポを大きく揺らすよりも構造をしっかり積み上げていくタイプの演奏に感じられ、そのため大きな音になっても混濁せず、最後まで緊張感が保たれていた印象があります。

さらに、Suntory Hall の響きもこの演奏の印象を強めていたように思います。残響は豊かでありながら細部も比較的よく見えるホールなので、弦の層や低音の支え、左右の掛け合いなどが分かりやすく、ブルックナーの構造感がより明確に感じられました。フランスのオーケストラという先入観とは少し異なる、重厚で引き締まったブルックナーだったことも印象に残りました。

プログラムはウェーベルン、シン・ドンフン、デュティユーという、音色と空間感覚を軸にした非常に統一感のある内容だった。

特に印象的だったのは、読響の弦楽器群。チェロとコントラバスを中心とした低域がしっかり空間を支え、現代曲特有の浮遊しがちな響きに重力を与えていた。その土台の上で木管や打楽器の色彩が立体的に浮かび上がり、デュティユーの精緻なオーケストレーションが鮮やかに機能していた。

シン・ドンフン《ヴィオラ協奏曲「糸の太陽たち」》 は抽象度の高い作品だったが、オーケストラが有機的に支えることで音楽として自然に流れていたのが印象的。アミハイ・グロスのヴィオラも、独奏として突出するより、オーケストラの響きの中で音色を変容させていくような存在感だった。

サントリーホールの特性もこのプログラムに非常に合っていた。残響の豊かさだけでなく、声部の分離や定位の明快さがあり、音色の受け渡しや弱音の陰影がよく見える。《メタボール》では各声部の色彩変化が非常にクリアで、響きそのものを聴く体験になっていた。

客席は6割ほどだったが、演奏の質は非常に高く、現代作品が単なる「難曲」ではなく、豊かな音響体験として成立していた夜だった