コミュニケーションでとても大切な考えがあります。それはコミュニケーションの大前提になる考えです。
この大前提を意識して情報を発信しないと
「そのような意味で言ったのではない」
「誤解を生む言い方だった」
「そんなふうに受け取られるとは思ってなかった」
というようなことが起こってしまいます。
コミュニケーションの怖さは、このように情報を発信したとしてもどのように受け取るか、自分でコントロールできなくなることです。コミュニケーションの大前提を常に意識して情報発信をすることです。
さて、その大前提とは
「コミュニケーンヨンの意味とは、送り手の意図とは全く関係なく、相手が受け取ったものである」
これは、一般意味論やNLP(神経言語プログラミング)で言われるコミュニケーションに関する考えです。
「怒るなよ!今のは良い意味で言ったんだよ」
「今の発言は悪い意味にしか受け取れないよ!」
となったらそのコミュニケーションで伝わった意味は悪い意味になってしまうのです。意図が肯定的であろうが善意であろうが関係ないのです。
同じメッセージでも、状況や人によって受け取り方が異なってきます。
私が授業や研修で、この大前提の説明時によく使う歌があります。
仏教の唯識の考え方を示す和歌なのですが、『唯識十章』(春秋社)という本の中で、興福寺の高僧、多川俊映師が述べています。
「手を打てば、鯉は餌と聞き、鳥は逃げ、女中は茶と聞く猿沢の池」
猿沢の池のほとりで誰かが手を「パン、パン」と打ちます。すると池の鯉はこれまでの習慣から餌がもらえるものと思い、岸辺に寄ってきます。また、近くにいた鳥はその音に驚き、飛び去ります。さらに、近くのお店の女中は自分を呼んでいるものと思い、大きな声で「はーい、お茶お持ちしまーす」と返事をする。そのような情景が目に浮かびます
つまり、この歌は同じひとつの出来事であっても、それを受け取る者が違えば、受け取り方が異なることを示しています。
仏教的にはまた手を叩いた音は、音を聞いた者との関係性、つまり縁の中でしか、意味をなさない、という考えを示しています。
コミュニケーションの例えとして解釈すれば、同じメッセージでも、相手によって全然伝わるものが違うということを示しています。
ですから、人とコミュニケーションをとるときには、メッセージを相手がどんな意味に受け取るか、よく考え、そして確かめないといけません。こちらの意図と違う伝わり方をしないように注意し、違う伝わり方をしたなら、修正をかけながら話を進めなければなりません。
こう言うと難しいようですが、親しく気心の知れた仲間たちの会話では、そうしながら会話をすすめていったりしています。
例えば、「君って、変わってるよね」と言っても 、「そんなに変か?」と不快感を示す人と、「そうでしょ!」って喜ぶ人もいます。
相手の反応によっては、「いや、そういう意味じゃなくてさ」などと、説明しながら会話を続けたりします。
私たちは、人とコミュニケーションをとるときに、なんらかの反応を期待してアクションを起こします。その「反応」をゴール(目的)とすると、自分の「意図」や予測とのあいだに次の法則が成り立ちます。
「意図≒反応」が近いほど、よいコミュニケーションであると。
例えば、職場に若い仲間が多いから、話を合わせようと思って、アイドルの話をしてみたとします。「部長も好きなんですか!仲間ですね」と好意的に受けとめてくれたなら、意図と反応が近いので、よいコミュニケーションです。
ところが、「無理してオレたちに媚びてるんじゃないの」と眉をしかめられたら、期待した反応と程遠いので、よいコミュニケーションではありません。相手の反応が意図に反していれば、それは失敗です。
「意図≒反応」を近づけるためには、状況を理解し、相手の価値観や立場、相手の視点を考えてコミュニケーションを行うことがとても大切なのです。