『天才バカボンのパパなのだ』観てきました。 | ケイジのB

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50歳を過ぎて、役者目指してただいま奮闘中です。

 『天才バカボンのパパなのだ』観て来ました。


別役実さんの脚本、玉田信也さんの演出です。

別役実さんは、日本の不条理劇を確立した第一人者で、電信柱のある舞台で名前を持たない人間たちが不思議な出会いをする独特の作風で知られた劇作家。2020年3月没。赤塚不二夫のギャグマンガ『天才バカボン』に設定を借りた原作者公認の二次創作戯曲『天才バカボンのパパなのだ』を1978年に発表。

 『天才バカボンのパパなのだ』別役実戯曲集あとがきより

 《天才バカボンのパパなのだ》は、言うまでもなく、赤塚不二夫氏の「天才バカボン」から材料を得たものである。私はかねてから、氏の「天才バカボン」には独自のドラマツルギーがあると考えていた。もちろん単純なものではないが、敢て一口に言ってしまえばこういうことになるだろう。先ず本筋に関わる基本的な葛藤線が、本筋と関係のない補助的な葛藤線に枝わかれしてゆく。本来ならこれはあくまでも補助的な葛藤線なのであるから、我々は終始、これはやがてカーブを描いて基本的な葛藤線に収束されてゆくであろうことを期待しているのであるが、そうはいかない。逆に、こちらの方が基本的葛藤線なのではないかと思われるほど、それが維持され、強調され、しかし、我々がそう思いはじめたとたん、それがまた、更に補助的な葛藤線に枝わかれしてゆく。

 このようにして、基本的葛藤線が補助的な葛藤線へ、そしてまたそれが更に補助的な葛藤線へと限りなく枝わかれをしてゆき、遂に基本的葛藤線に立戻ることなく、とめどもない迷路に踏みこんでゆく、というのが、氏の本来のドラマツルギーなのである。言ってみれば私は、このドラマツルギーを借りたということに他ならない。葛藤線を維持することにおいてこれは近代劇的な手法であるが、同時に、それをそうしたまま近代劇的な葛藤の論理を、破壊するための手法にもなり得ると、私は考えたのである。


 不条理のお芝居って、好き、嫌いが結構分かれると思います。僕は、あまり不条理の芝居は分かりにくくて、好きではないです。思考回路が不条理に合ってないかも知れません。僕の勝手な解釈ですが、不条理の好きな人は、物事を斜めとか、後ろとか、いろいろな方向から見ることができる人が多いように思います。僕はどちらかと言うと、正面からしか見れないタイプなので、そう感じるのかもしれないと自分では思っています。ただ今回、『天才バカボンのパパなのだ』観て思ったのは、人って、結構他人の話を聞いたいないかも知れないなぁ、と言うことです。こうだ、と思ってしまっていると、そう思っているので、他人の話が耳?頭?に入って来ないのだろうと思いました。思い込みってやつですね。大なり小なりそんな中で日常を過ごしているのかもしれないと思いました。だから話がかみ合っていなくても、それでも言いたい事を言って、会話している気分になっているんだなぁ、とお芝居を観て感じました。ちゃんと人の話を聞かないと、お芝居の最後みたいな事になり兼ねないと、そんな事を感じました。