「答え」と「疑問」 | 宇都宮の書道教室【啓桜書道教室】

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これまでの自分の考えに疑問符をつけたり、
否定をしたりすることを恐れないことだ。


新しい自分の考えを柔軟に受け入れる。


真剣にひとつの物事を考えている人間の答えは、
まとまらないもの。


できるだけ大胆に、
否定を加えていく覚悟でいる。


まとまらない考えは成長の証だ。



たとえばひとつの方向に向かって
その答えを出すために考える学問もある。

最後はまとまったものになるかもしれない。


でも、その中途段階においては、まとまらずに
試行錯誤し混沌とした状態が続くだろうし、
最後にまとまったと見える“答え”も、

実は大きな何かの中の一部であり、
完璧なまとまりのあるものではない。


20世紀は、あらゆるものへの答えを求めた時代と言われる。


結果や結論を重視した結果、
完璧と思われたあたゆるものにボロも出た。


人間が生きることに“答え”などあるのだろうか。

誰もがわかっている通り、それはNOだ。


でも人は答えを求めたがるし、物事に意味を見いだそうとする。


一人の人間の考えや答えがまとまることなく日々違っていたら、
まるで無法者とでも言わんばかりの扱いになる。


確かに約束が日々違っていたり、社会的秩序に反することであるなら
おかしいと言える。


大小あれ誰もが該当する、約束や秩序の世界に生きる我々には
それを守ることは最低限、当然のこととして教わる。


だが、個人の考えや答えは、本来一定のものではない。

私たちは、日々食べたいものが変わるし、
体調によって寝る時間も変わる。


人間は他の動物より気分屋である。


日々の秩序を守ることと 個人の考えを同じように考えては
人間の成長はあり得ないものになる。


特に芸術においてそれは、最悪の状態なのだ。


たとえば 「芸術には前衛性が必要である」 と考える。

しかし明日には 「芸術には古典性こそがもっともである」 と考えたとする。


書であれば
「筆で文字を書くべきだ」 であったり、
「筆である必要もなければ文字である必要もない」
かもしれない。


「静かに書くべきだ」 であったり、
「大胆に書くべきだ」 かもしれない。


極端な二つのものが互いに作用しあう。


それは端から見れば、考えのまとまらない、非常に曖昧で危険なものに思える
かもしれない。


だが、「一つの今日の答え」に対し、「本当か?」 という別の自分からの投げかけは、

日々起こり得ることである。


今日の答えは、明日否定されるかもしれず、それはとても自然なこと。

今と以前の考えが変わっていることは、なんら不思議なことではない。



子供の時代の考えと 今は確実に違っていて、
誰もがそれを受け入れる反面、大人になってからのそれは

なかなか人に受け入れられない。


「答え」と「疑問」。


この自分の中の他人とのやりとりは、
生涯続き、死ぬまで続くことかもしれない。


できあがったものに安住する時代に生まれた我々は、
自分なりの生活や思考を作っていくという感覚において、
とても鈍い。


かといって完璧に先人の技術や思考を受け継ぐほど純粋でもなく、
その時間もない。


少なくとも、まとまった自分にだけはなりたくない。

少なくとも、できあがったものに安住はしたくない。

少なくとも、昨日までの自分にあがくことをしていたい。