“計算” すること | 宇都宮の書道教室【啓桜書道教室】

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書をやっていると、


あらゆる “計算” には「ひずみ」がある

と感じることがある。



計算とは数学的学問上のことではなく。

傾向推定とでも言おうか。



こうきたら こう。 という、

過程から統計をはかり、行動や思考を行うこと。



人間の知性の根本を指すもの。


誰もがその“計算”をし、

それをしなければこの社会は成り立たないし

成り立ってこなかった。



かの 

顔真卿 「争坐位文稿」

王羲之 「蘭亭序」


どちらも“草稿”がそのまま歴史上の逸品としてに残ったものとして知られ、


“草稿”つまり“卒意”であることが“作意”を越えられなかったことを示す。


草稿は卒意である。 卒意は計算ではできない。

あらゆる経験と感覚によるものである。


草稿は計算のために作ったという矛盾もそこにあり、

その矛盾こそが草稿が逸品となった所以でもある。



物事はすべて計算して行わなければならない半面、

その計算はどんなものも完全無欠ではなく、

必ず 「ひずみ」 があることを知らなければならない。



“計算”の対義語を考えてみる。


推測 推量 推察 想像 憶測 仮定 推敲 推論 予測 仮説…



これら全て “計算” の対義語であるように思えるし


“類義語” であるようにも思える。



「マニュアルがなければダメ」

と叫びたくなるほど マニュアルにより画一化された社会があり、


しかしその半面、

“生き方”において完全なマニュアルはどこにも存在しない。



“計算” には 「ひずみ」 がある。


いやいや、「ひずみ」 だらけであって、

“計算” の “対義語”を考えることこそが

おもしろいのだ。


“書” を計算で捉えようとする者。

モノづくり を計算で捉えようとする者。

生き方 を計算で捉えようとする者。


自分にも深い内省の念を込めて言いたい。


「ひずみ」 だらけだと。