墨の生滅 | 宇都宮の書道教室【啓桜書道教室】

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墨 (固形墨) は

つくられ、その形を成したときから、

磨られて消える運命を持っている。


握りしめ 長い間手の中にあった墨が、

短くなり、 持つことが困難になると、

新しい墨の先にくっつけて使う。


そして 日が経つと、

いつの間にか 静かに消えている。


どんな量産墨であれ、 高級墨であれ、

その使命をまっとうして消えるそのとき、

その墨は幸せだったろうな、と思う。



固形として生まれた墨は、

温度湿度さえ保たれていれば、半永久的にその形を保持し

良質であれば、数百年から千年単位で形をそのままに保っているものもある。


それが、ひとたび水の乗った硯の上で研磨されることで、

水中に墨の粒子がコロイドとなって分散し、

かつ水とまざったニカワは 腐敗を始めることになる。

真夏であれば、一日ともたずに腐敗した墨になる。



永遠と思われた墨の命も、 水と混ざり 「実用」のための液墨となると、

突如として 死へと走り出す。


そしてその間に、紙へと乗った墨は、また形を変え「文字」や「絵」となって、

そこに命を灯すこととなる。


形を変えた先は 火にも湿度にも、虫にも弱い

紙である。


文字としての伝達や手習いなど、

役目を終えた墨は、そのまま煙の中に放り込まれ、

灰となってしまうかもしれない。


そんな「墨」であっても、 昔から墨師はそこに心血を注いで彫刻をほどこし、

香りをつけ、

こと 「墨色」 においては、たかが黒一色であっても 

「墨に五彩あり」 と言わしめるほどにさまざまな工夫をこらした。


使い手も、とても気に入った墨は、ここぞという時に用いたであろうし、

それが消えるときは、 もの悲しさと、使いきった嬉しさに包まれたことだと思う。



西洋絵画などとは違い、 永遠に形を残すことを目的としないにも関わらず、

墨の その黒は、 1000年、2000年と 書かれた当時そのままの色を残す。


長い歴史のなかに、消えていくものと、 残りゆくもの。


そのどちらもが、 「墨」 であり、 

いずれ消える運命を持つ墨に、無常を感じずにはいられない。



墨の生滅は、  そのまま人の死生観と同じである。

そのとき墨は、道具でさえなく、生きている。


だから昔から、東洋のひとびとは、 墨を大切にし、

墨を磨ることに命を注ぎ、

文字とその文化を大切に守ってきた。



そこにおのれの生涯を 重ねられたからである。