手書きのようなポスターが気になり、高畑勲監督のかぐや姫の手法に影響を受けた作品と聞いて観に行ってきました。

人物は墨絵のような筆でレイアウトを取っただけ。その輪郭だけの人物達が、色を施された背景の中に浮かび上がるような不思議な手法。人物の輪郭は、静止している時ははっきりとしているが、動くと一部が消えたり、時には明滅するようにはっきりとしない。ついたり消えたりする電球のような描かれ方に始めは違和感しかないが、だんだんとその曖昧な線が人物の息遣いや、戸惑いのように感じられてくる。
この不思議な人物たちは、全てセバスチャン・ローデンバック監督が一年かけて筆で描いた線だとか。筆なので、線に太い細いが出て、それが動きにも変化を与えているのかもしれない。

あらすじはグリム童話の手なし娘を素地としながら、ラストを監督が変えているとのこと。
川の水が干上がったことで飢えた粉挽きの男が悪魔と取引をしてしまう。男の家の裏にあるものと富を引換えようというのだ。家の裏には娘が植えた林檎の木があった。しかも悪魔と取引している時、娘はその木の上にいたため、悪魔が本当に欲していたのが娘だということがわかる。男の家に引き込んでいる今は枯れた小川に水が戻り、男の家の水車を通って黄金に変わる。富に目のくらんだ男は、悪魔の言われるままに娘の手を切り落としてしまう。

父親に絶望した娘は家を出ていく。飢えを満たすために梨の実を食べたところを、主人の王子に見初められ結婚する。戦が始まり、王子が不在の間に男の子を出産するが、悪魔の策略により王子が娘と子を殺すよう命じる手紙が届いてしまう。庭師の好意で赤ん坊とともに城を逃げ出したどり着いた川の源流で、畑を耕しながらひっそりと暮らし始める。戦が終わって城に帰った王子が2人を探しだす。

普通のおとぎ話なら、娘が父の元を逃げ出して王子に見初められた結婚式でめでたしめでたしだろう。しかし、この話の悪魔はそれぐらいでは諦めない。娘が子どもを産むと、手紙をすり替え娘が城を出るように仕向ける。王子がようやく2人を探し出しても、子どもを奪おうと付け狙う。

そもそも悪魔はなぜそんなにも娘に執着したのか。最後は「お前にばかり構ってられない」と言い捨てて去っていくが、契約の履行が第一だろうが、自分が手に入れられないものに対しての執着は、悪魔と獲物というよりも、男女の関係のようにも感じられた。
そうやって振り返ってみると、この物語に女性は娘しか出てこない。前半に母親が登場するが、娘を守ろうと行動して犬に襲われて死んでしまう。
娘が思春期であることは、林檎の樹の上で自慰を思わせるような動きがあることで示される。また、水浴びをしている際には、女として成長している姿を父親に見られてしまう。その娘を手に入れた王子だけが彼女と愛を交わす。庭師も彼女に憧れ、絵を描く。生まれた子も男の子だ。全ての男が彼女に恋い焦がれる。娘は、男たちの娘であり、妻であり、母であり、憧れであり、そして屈服させるものとして描かれいるように感じた。
そんな中、たどり着いた小屋で生きていくため、娘は王子にもらった黄金の手を捨て、自らの手を血に染めながら食物を育て、知恵を使って子を育て、逞しく生き抜いていく。簡素ではあるが伸び伸びとした線がこの場面の彼女の躍動的な姿を写し出す。娘は
自分が自分の力で子どもを守ろうとした時、彼女の手が戻ってくる。そして悪魔と対峙するのだ。そこに悪魔に怯え、逃げ回っていた娘の姿はない。さらに城に戻ろうという王子にも、新しい世界での新しい関係を望むのだ。

昔話に寓話は多い。この話も、グリム兄弟によって神への信仰を伝えるために書かれている。今回監督は宗教色をできるだけ排除したと言っていた。確かにキリスト教ぽくはない。その分、女性の自立していく姿が印象に残った。私が女だからかもしれないが…。