浦沢作品は話の筋がしっかり通っていてわかりやすいのが特徴だと思ってる。

そして少し難しい。

作品を読みながら「浦沢直樹は頭良いなぁ」って何度も思ったから。

男は単純でバカだから本当はあまり込み入った物語は好まない。

男は恋愛やら嫉妬やらとかいう人間の深い心理を描き出すものをあまり快しとしない傾向がある。

めんどくさいから。

ドッカーンとかアッハーンとかが小気味良いリズムで入ってるものがとても人気である。

少なくとも私の世代はそうである。

ドラゴンボール然り幽々白書然り。

しかし、浦沢作品には不思議とこれら男子受けする要素が全くと言っていい程無い。

でもとても面白い。

押されるツボが違うのだ。

ドラゴンボールなどのヒーローものはアツさで勝負。

浦沢作品は冷たさで勝負とでも言おうか。

冷たさを前提とした温かさが浦沢作品の魅力。

淡々と物語は進むがそのバックグラウンドではものすごく大きな力が蠢いている。

単純だがかつ根本的な謎や問題がずぅぅっと残される。

それが全く思いもよらない形で表現され同時にその正体を現す。

この作品について言うと、この『20世紀少年』には、他の浦沢作品に比べて、浦沢さん得意のわかりやすいストーリーに、空想やフィクションといったたくさんの「遊び」が加えられていると思った。

あの独特のシリアス感。あの独特の疾走感。

次を知るのが怖くなるほど単純で的を得たストーリー展開。

私は浦沢版アトムも読んで静かなる衝撃を受けたが、そう、浦沢ストーリーの結末には静かな衝撃がある。

みんな、男子であればなおさら、小中学生の時分にやり残して後悔している事があるはずだ。

そしてそれは大体の場合罪の意識と直結している。

万引きや弱い者いじめなどはその代表例だろう。

かくいうこの私もその例外ではない。

もう時効であって問題ないとも思うが、やはりここで多くを書くことは出来ない。

少年は悪いことをしてしまうものなのだ。

友達の持っている珍しいカードを黙って拝借したり、中古本屋の中古本をこっそりバッグに入れたり、借りたものを失くしたり汚したりしてしまって返せなくなって、返してくれと催促されているのにもかかわらずいつまで経っても返さなかったり。

まだまだある。

学校のトイレで大便をした同級生にう○こという名前をつけて、見てもいないのにそいつのしたう○こが緑色だったと言いふらしたり。

好きな子をいじめたくなって毎日毎日「くさいくさい」と言い続けて泣かせたり…。

この、なんとも言えない後ろ暗い思い出を、浦沢直樹は漫画と言う媒体を使って見事に表現していた。

「ともだち」は俺の事だ。ケンジは俺だ。そう思ったのは俺だけではないはずだ。

この作品は俺に「やさしくなれ」とは一言も言っていない。

でも、私はこの作品を観て心から「もっともっとやさしくなろう」と思った。


                                以上
walkmanは多分flac対応していないでしょう。

全然これは別に良くて、でもここで考えるのは、人の欲っていうのは本当に限り無くて、20年前、10年前のメカではもう絶対に無理だろうなぁということ。

多分テープなんて音ガッサガサでしょう。それはそれで味があるんだろうけど、でもそれは今の技術によってその音を良い音で聴けるという前提があって相対的にテープの音に特徴があるだけだ。

確かなのは、僕がたとえ音の聴き方が上手になっていたとしても、それはただ技術的な問題とか精神的な問題だから、30年前から僕の耳は僕の耳だ。

しかもその容量の違いと言ったら、雲泥の差どころの話じゃない。

120分再生しながら120分テープに頑張って録音して喜んでた小学生の頃を思い出して、あれはあれで別の意味で幸せな時間ではあったが、あれを今するのはその作業でお金をもらえる人か、ちょっとどうかしている人かのどっちかだ。

70分ぶんのデータをそのままものの10分で自分のパソコンへ取り込んで、CDの回転音もなく再生して楽しむことが出来る。

さらには、カセットテープの5分の1ほどの大きさの機械にほぼ同音質のCD何十枚分ものデータを入れて持ち運び、こちらもとてもきれいな音で聴くことが出来る。

ギターの音を、ベースの音を、人の声のような機械音を。

それでも、まだ僕は欲している。

実際、CDのデータは約700MBだから、単純計算で8GBのwalkmanにはCD15枚分位しかデータを入れられない。

しかも今はハイレゾという、スタジオで録音したそのままのデータを配信してくれるサービスもある。

となると、僕たちの感覚は再び「60分テープの時代」になるわけだ。

つまり、ハイレゾのような大容量のデータを持ち運ぶためにはもっと大きな箱が必要になる。大きな箱を動かすにはより大きな力、電力が必要だから、それの有効利用も考える必要がある。

時空を超えて当時のそのままの音が飛び交う世界において、私たちはそれを当然にしてまた歩いていくのだ。

だから今から20年後には言ってるだろうね。

「ハイレゾなんてもう絶対聴けないでしょう、『概念』が古いからね」

とかそんな感じのことを。

時空の関係ない世界はそのままその世界自体がタイムマシーンを内包している。

音だけでなく、静止画や映像にも同じことが言える。

世界を切り取ることに成功するカメラはいつ誕生するのか。

それが誕生するときには切り取られた世界を瞬時に復元する技術も必要になるだろう。

その写真に飛び込むことが出来ればそれを今の時代の僕たちは「どこでもドア」と呼んでいる。

とびっぱなしの空想はやはりとても楽しい。

山下達郎の蒼氓がとても気持ち良い。
vocal、guitar、bass、drums etc...

「これは何の音でこの曲はこう変化してクライマックスはこうなる。」という聴き方もとても楽しい。

でも、僕が今までの音楽人生で行き着いた最高の聴き方は、すべての音をただ「音」と受け取り、それと同時にそこにある音を「音」と念じながら聴く方法だ。

つまり、音を聴いているとき、私は2人になる。

一人は音楽に包まれ、時には幸福感いっぱいの、時には切なさ満点の、時には興奮度マックスの私。

そしてもう一人は、その全ての感情的人格を傍で冷静に見つめる一種の神的私。

小学生、中学生の時分の私の音楽の聴き方と言ったら、それは与えられたおもちゃにただ耽溺し、その時私はその音楽という名のおもちゃと一心同体だった。

私は音楽になっていた。

しかし、高校生になるくらいから思春期に入った私は、自分を客観視してより自分ではない外の世界との交わりを強く意識するようになった。

このことは何も音楽に限った事ではないが、精神的興味のベクトルが内から外に向かうにつれて、やはり音楽を聴く姿勢も違ったものになってたんだなぁと今思い返すととてもよくわかる。

「本当はワンピースの主題歌が気になるけど、彼女のいるかっこいいクラスメートはなんやらセックスピストルズなるバンドの音楽を聴いているようだ」

かまってちゃんのの子ではないが、私もピストルズを最初聞いたときは正直

「なんだこのヘタクソバンドは」

としか思わなかった。

ボロボロの革ジャンになんやらセーターをズボンにして

だっさ

それが本心だった。

でも当時ヤりたくてそれしか考えてない田舎高校生にとって、ピストルズの社会性は絶対に無視出来なかった。

これはかっこいいんだ。

これをかっこいいというんだ。

そう自己催眠をかけた。

ブルーハーツもビートルズもストーンズもツェッペリンもみんなださかった、この上無く。

伝説のバンドと呼ばれるバンドの兄ちゃんたちは皆もれなくかっこわるかった。

ブルーハーツは単調で面白くないし、ビートルズはとろいしストーンズは全部同じ曲にしか聴こえないしツェッペリンはギター弾きによくいるただのギターうまい奴にしか感じなかった。

それよりも、本当は、僕はカーペンターズを聴いていたかったし林原めぐみのニューアルバムが欲しかった。

でも、「社会」がそれを許してくれなかった。この、社会というのは、今から考えればこんなものは高校生の考えた「自分の世界」でしかないのだが、こんなことも当時頭の中がピンク一色のガキにわかろうはずもない。

ブルーハーツを聴けばモテる。ハイスタを弾けば彼女が出来る。

ナサバナの極致だが、うむ、男子高校生にとってはこれが全てである。

そして、今30のおっさんが堂々と宣言する。

あの聴き方は正しかった。否、最高に楽しかった。

男子高校生にとって同い年の女子はまさに神のような存在で男の方はその対象に非を唱えるどころか非を問題にしない。非の打ち所が無いのではなく非を起こさない。

絶対是である。

その絶対是は大抵音楽が好きなのである。

絶対是は音楽が好き→音楽に詳しくなってかっこよくなればそんな俺を絶対是は好きになる

見事な2段論法。

しかしこれでいいのである。オールユーニードイズラブである。

だから貪った。これでもかと貪った。だから僕はそれだけ音楽が好きになった。

ここに面白い現象が起こっている。

当初は女の子に好かれようと自分の真の興味対象ではない「かっこいい」音楽を追求し、それを模倣しなりきり演じている過程において、少年と青年の中間存在は段々気づき始める。

音楽に詳しくてたとえ「かっこいい」としてもモテるわけではないことに。

そしてむしろ、音楽にのめり込めばのめり込むほど女子が遠くなっていることに。

僕は多分このことに気づいたとき大人になったんだと思う。

とても悲しくて辛い事実だが、これが未分化の僕とおさらばした瞬間だ。

元々内気だった僕の性格も災いし、同時に功を奏してそれからは音楽が僕の「彼女」になった。

このことに気づいたのも最近だが、思えば10歳ごろに初めて自腹で南国少年パプワくんの主題歌CDを買ってから今まで20年以上、音楽は常に僕の一番近くにある。

「んっばばんばんば」は今でも俺の心にぐっと突き刺さっている。

しかし、私の音楽人生には暗黒の時代もある。

高校でいいだけ好き勝手をした反動かその後の大学時代の音楽人生はまさに暗黒のその時だった。

思春期も大分落ち着き、経済学部に入学した私は、大学では主に論理的で抽象的なものの考え方を学んだ。

左脳の訓練を施され、論理的に物事を考察する方法を学んだ私は、当時は音楽にも論理的であったように思う。

だからちっとも面白くない。むしろ、好きな音楽を聴いてもつまらない。むしろ苦痛になった。

でも、右脳はハッピーを司る脳らしく、腹の底から音楽を聴きたくはなる。

でも、何を聴いていいのかわからない。そして、ツタヤで「かっこいい」バンドのCDを借りてきて聴いてもただ虚しさが募るだけ。

当時は、志望していた大学に行けず、地方の大学に行って一人暮らしをしていて、私の人生的にも暗い時ではあった。一人暮らしは望んでいたが、いざしてみると余計に金が掛かるだけで、寂しいし寒いしとても不規則だった。

音楽は聴いていた、ずっと。バイトはツタヤでしてたからエンタメにもずっと触れてたし環境的には恵まれていた。

でも、この時期は、私の思春期初期に起こった、精神的興味が内から外へというベクトル方向の変化とは逆の現象、つまり、思春期には周りを気にして僕の精神的興味は外にあったが、様々な経験を経て、僕の精神的関心ベクトルは再び自分の内へ内へと向かっていった。

先述したが、元々私は内気なのでどっちかというとこちらの世界の方が広いし得意、なのである。

だから、この時期は色々な事が本当に深まった。とても辛い時期ではあったが、あぁいう時期は必要なんだろうなぁとも思うし、やはり今から思い出すとあれはあれで自分で楽しんでいたのだ。

20歳から25、6歳が私にとっての自己探求時代だった。

当たり前に持っていた価値観は全国から集まってきた大学の同級生によっていとも簡単に破壊された。

自分が最高にかっこいいと思っていたことや、大事にしていた事が当然に否定された。

何が何やらわからなくなった。


そこで僕は高校時代に傷だらけにしたブルーハーツのCDを聴いた。


人は誰でも挫けそうになるもの

叫ばなければやりきれない思いを 大切に 捨てないで

人にやさしくしてもらえないんだね 

僕が言ってやる でっかい声で言ってやる 頑張れって言ってやる

聴こえるか がんばれ! 

(人にやさしく THE BLUE HEARTSより)


この瞬間が僕がブルーハーツにロック銃でこめかみをぶち抜かれた瞬間だ。

何にも考えないで歌っていた僕は本当に幸せ者だった。


世界がゆがんでいるのは僕の仕業かもしれない

(チェインギャング THE BLUE HEARTSより)


チェインギャングを好きな女の子とハモッて歌っていた僕は本当に幸せだった。


何が何やらわからなくなってる心がそのまま肯定された。

あれだけかっこ悪いと思ってたヒロトの歌声があれから獅子の咆哮よりも強く聴こえるようになった。

音楽が僕を肯定してくれた。

悩みは尽きないしむしろどんどん増えていく。

悲しみは突然襲ってくるし、自分では苦しみの原因をどうしようもできない。

でも、そんな時でも、それはお前だけじゃない、俺も苦しいんだ、と精一杯歌い、表現しているのが、高校の時に知った伝説のバンドマン達だったんだとその頃から気づき始めた。

この時僕は音楽と結婚した。

そして今、結婚5年目くらいを迎えて、これまで色々な事があったが、私達の仲は深まり続け、そしてその加速度は増し続けている。

今から約3年ほど前に、私はアルボムッレ・スマナサーラという上座部仏教の長老が著した書物と出会った。

この本に長老が書いていた音の捉え方についての考え方が今の私の音楽の聴き方の核心になっている。

その著書の中で長老は

「人の笑い声も怒声も泣き声も素晴らしい音楽も全ては音という波です」

とおっしゃっている。

そして

「だから、もし電車の中などでうるさい若者がいてもその者達はただ「音」を発しているだけなのだ。」

と。さらに

「職場で上司や嫌いな同僚になにか嫌なことを言われてもそれはただの「音」。だから、そこに自分の感情はいっさい生まず含めず、ただ「音、音、音…」と念じていれば良いのです。」


長老はこの著書では、私たちはどうやったら幸せな人生を送れるようになるか、という話の流れの中でこういったことを述べられていて、あくまで話のメインストリームは、「日常にある嫌な音や言葉」にどう対処すればいいのかを教えてくださっていますが、先述したように、これは逆にとても素晴らしい音楽のような芸術作品にも当てはめることの出来る考え方です。

つまり、少しひねくれぎみに表現すれば、どんなに素晴らしい音楽でも、それは人間が作ったものであり、神様が作ったわけでも、極楽浄土で流れている音楽でもありません。

まさに音とは、それがどれだけ素晴らしい音楽でも、それはただの空気の振動波でしかないのです。

この厳然たる当然の事実を、長老の著書において、改めて認識させていただいたとき、音楽と私の仲はさらにズドンと深まりました。

内容は本文の最初に戻りますが、私は、私の好きな音楽を聴いている時、2人になります。

一人は音楽と一心同体になって、心底その素敵な芸術を楽しんでいる自分。

そしてもう一人は、私の耳にとどまることなく流れ入って来る音をただ「音」と認識しつつ、一方で音を楽しんで忘我している自分を冷静に客観的に眺めている自分。

前者は感情的で個別的な自己としての役割を、後者は俯瞰的統合的自己としての役割を担ってはいますが、結局はどちらも音という現象に注視集中して楽しんでいる自分なわけです。

こうやって音楽を聴いていると、いえ、こうやって世界に存在する全ての音を聴くように意識すると、心の中の自分が、まるでこの世界とは全く別次元の世界に在って、穏やかにこの世界を俯瞰しているような感覚になってきます。

そして、私の場合は、音という自然現象を人工的に抽出してエキス化した音楽という芸術作品に触れている時に、最もその感覚が強くなります。

女の子の歌声も、ミサイルの爆撃音も、子供の悲鳴も、虫の鳴き声も、私の話す言葉でさえも、それはただの「音」であり空気の振動波である。

そう意識して音楽を聴くと、それはあたかも太陽から照らされて浮かび上がる私の姿とその影のように、音楽は、陰に陽に私を掴んで離してくれなくなるのです。