そこにあるのは音ですか?

そこに音はあるのですか?

ねぇ

そこに音なんてないんでしょ?

ここに音はないですよ

あるようでないんですよ

本当は

無いんですよ


そこから届くのは音ですか?

それとも光ですか?

それでは一体何が伝わってきているんでしょうか?

この現象はなんなんでしょうか?

嘘はいけない

この現象は

この気持ちは

この高まりは

なんなんでしょうか?


知っているんですよ

知っているときがあるんです

知らなくてもいいようです

ただ

なぜか

残るときがあるんです



無いのに



本当は無いのに



残ってないんですよ本当は



何も残らないのが

音楽

なんですよ

差し込まれたその手の

手首の骨が見えるほど

ゆっくりとしたスピードで

重く回る鉄の羽根

容赦皆無 斬捨御免

君には顔が無い 君は考えをもたない BPMが全て

君は表情が無い 感情が無い

言ってみれば 言うことも聞いていないし 勝手に動いているのでもない

言ってみれば 言うことを聞いて 勝手に動いている

要は君なしじゃもうダメってことさ

袖を引っ張って

腕を引きちぎらんばかりに

ゆっくりとしたスピードで

重く進むキャタピラ

容赦皆無 斬捨御免

君には力がある 君には回路がある スウィングなど知らない

君にはディスプレイがある 電気が走っている

言ってみれば 指図されてないし 指図もしていない

言ってみれば 指図して 指図されてる

要は君なんかどうでもいいって事なんだ


要は君なしじゃもうダメってことさ

僕だけじゃ もう 何も出来ないんだ 
面白かったー。

気合入ってるわぁ。

なんともこのまま寝ようと思ったんだがどうも興奮冷めやらぬので一筆。

最近僕の中の大きなテーマとして「差別とは何ぞや」っていうのがあって色々な資料に当たっている。

真剣に現在の差別問題に向き合っている新書から今回のような古い映画まで。

というのも、古い映画というのは、当時の言葉が感情が込められて使われている。

作り物ということで、役者達は、当時でも少し問題のあったであろう言葉でも、思い切り使っていたりする。

このこと、つまり、社会問題を客観視し、その当時の社会の問題点を如実に浮かび上がらせることが、映画をはじめとした幾多の芸術作品の最大のメリットの一つであると思うが、映画では特に、他の書籍や絵画などの媒体とは違って、動画の威力はいわずもがな、それよりも僕はむしろ「生きている言葉」を聞けるというのがとても貴重だと考えている。

情報の質としては、やはり字に起こしてそれを留める書籍が最も直接的だし論理的に整理されているので理解しやすい。

しかしそこから感情を読み取ることは難しい。字はどうしても現実と乖離してしまう。

一方映画の方は、人が言葉をしゃべる。そこには話者の表情があり、仕草や態度があって、その発せられる言葉には抑揚がある。それは一種の音楽となる。

つまり映画は感情の起伏に関する情報が他のメディアと比べ格段に多い。

人は感情によって動くというのが私の一つの考えである。人は結局最後は獣同様本能に基づく感情で行動する。

映画はそれを丸ごと切り取る媒体だ。

作り物だから嘘ではある。しかし、作り物からしか見えない真実がある。

今回の映画は鬼龍院一家というヤクザ稼業一家を中心に話が展開される。

そこには稀代の美女が何人も登場する。

しかし、現実はおそらく違う。

ヤクザという社会的には低く弱い立場にある集団に、あれほどの美女はそういないはずだ。

もちろん、例外は常に存在するから、ヤクザの組の女将が絶世の美女ということもないこともないだろう。

しかし現実は違う。ヤクザ集団の中の女が全員とびきりの美女なんて有り得ない。

しかし。映画の中では、色気むきだしのむちむちした若い女が着物をはだけさせて思いっきり差別用語をぶっぱなす。ヤクザの美女女将が全身を振り乱してちゃぶ台をひっくり返し他の女をこれでもかと見下す。

こういうシーンを観ていると本能的な欲求に基づく野獣的興奮が先立つ。「あんなヤらしい恰好をした女があんな最低の言葉を使っているぞ」「あんな美人が平気で人を物扱いして引っ張り回して見下している」

でも、少し冷静に引いて観るとこれまた面白い。

映画では美人が放つ醜態のその先に人間のナマの姿を観る事が出来る。

演技といえど、そこには女が差別用語を怒鳴りながら叫ぶ姿や人が人を完全に見下している様が丸っきり収められている。

つまり、演技とはただのフィルターである。演技とは、演者と観衆とが暗黙に交わしている共同幻想である。

本性は「自分本人」が出すわけにはいかない。現実では常に。しかし、演技としてであればそれはかなりの程度まで許される。

なぜならそれは、悪事を働いているのは架空の人物だから。

しかし、言葉は知らなければ話せない。言葉を知らなければ演技は出来ない。つまり、役者本人がその差別用語の意味を知らなければ、架空人物に話をさせることが出来ない。

差別用語を使う俳優はいかんという話ではない。当然。

差別を考える資料としての映画という点において、ここが面白いと感じるという話だ。

そこでは、役者という一人の人間を通して、作り物である映画の中の世界と現実の世界がつながるという現象が起きている。

現実に今起こっている差別は見えにくい。差別の現場では、被差別の側自身がそれに気付かぬよう「自戒」することすらあるだろう。

自分で自分に目をつぶる。それは演技ではないから。

三國連太郎の『親鸞』にあった差別意識はその激烈なシーンを通して今も俺の頭の中に焼きついているが、今回の作品も、映画としてはもちろん面白かったし、人間を観せてくれる映画だった。

さて、眠たいのでそろそろ締める。

今回の映画、本当にすごい映画だったがどうしても残念だった点が一つだけある。

若かりし日の夏木マリのおっぱいが見れた。まさに美人薄命だった夏目雅子のおっぱいも観れた。



でも、


なんで岩下志麻のおっぱいは観れなかったんだ!太ももだけなんだ!


                              以上