中国の秦時代の商鞅の最後(法律もあまり厳しくるとえらいめにあうという話)
・紀元前338年、秦の孝公が死去し、太子駟が即位し、恵文王となった。
・この時にかねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅に謀反の罪を着せようとした。
・恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとした。
・しかし、宿の亭主は商鞅であることを知らず、「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。
・商鞅は「法をなすの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)と長嘆息し、いったん魏に逃げる。
・でも、公子卬を騙したことを忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。
・仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。