超未の子育ては… | しららさんちの日常

しららさんちの日常

ミニチュアダックスそら(2021年死去)とトイプードルのアクア(2023年死去)、猫の清麿(2014年死去)と小雪、2012年に618gの超低出生体重児で生まれた子供との日常の記録

昼に1度UPしたのですが、消したつもりの文が後ろに残ってたのに、気づかずUPしてました。指摘されて、大慌て(汗)

先月からある、家置きの夫のPC(家にいないときはこれ使っていいよとは言われていたんだった)から開いて、

不要箇所消してUPし直しました~。

スマホはアプリをいれないとだめですが、PCからなら、そういえば編集可能だった・・・。

自分のPCが壊れてから長いことPCなしの生活だったもので、忘れてたよ~(苦笑)

 

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今朝、たまたまアメトピから飛んだ先が超未の赤ちゃんのママのブログでした。

まだ歩いてない、ずりはい…してる?してない?ぐらいの小さい(1歳にもなってないという意味、ですよー)子のママの話で、
知り合いの超未ママの子が、○○が出来たとかなんとか、
それを比べてしまって、色々思った、という内容。

ん~…懐かしい。
そういうこともあったなぁと。

昔から知ってるママ仲間は知ってるでしょうが、つたい歩きまでは超~早かった、うちの子。
おそらく、そんなブログの内容を見て、周りがその頃そんな思いをしてたんだろうなぁと思う。
そして、またご存知の通り、つたい歩きから独歩までが、早かった分まで長い道でした。どんどん周りが歩いてるというのに、歩けず。結局歩けたのはつたい歩きから9ヶ月後。季節は春から完全に冬になっておりました。
その間、他の皆からの報告や実際を見つつ(超未会への初参加がこの期間でしたからね、夏だった)、うちが出来たよーという報告を上げてた時色々思ったのかもなぁとも思った9ヶ月でしたわ。

やっぱり超低出生体重児で生まれたから、
発達への不安は常にあったからねぇ。
歩けるようになる、という保証なんてないというか。

幸いというか、あの頃から知ってる超未ちゃん達で、今も交流がある子には、自力で歩けないという子はいない。
そこまでの過程と期間はそれぞれですけども。

「歩く」が一山で、次が「話す」。
「話す」も、全く話せないという子もいないわ~。
これまた過程と期間と現状はそれぞれですけども。

ここまでは、この山を越えるか越れるのか、に悩む。比較もしちゃって、悩む。

正期産の子の親が悩まないとは言いませんが、
超低出生体重児であったがゆえに、超未ママは、不安倍増…。なんていうか、保証のなさ、みたいな…不安と闘ってた気がします。
五体(五体満足の)はあっても、その五体の性能はどうなんだ…っていう不安よ…。

現在では、幸い親しい子は、皆、歩けてるし、お話も出来るようになってるけど、そりゃもう完全な8年目であるがゆえの結果論だもんねー。
その年月の間、誰がいつ、どうでしたっけ…なね…。

それでもね、保育園・幼稚園問題が出てくる3歳までは、自分の中だけの比較の葛藤で済んでた(当社比的な)、いい期間だったんだなぁと今は思う。

保育園・幼稚園の時期・期間になると、
イヤでも周りとの比較にさらされる。
また言われるしね、比較して言われるし、だから悩むし、対処も求められるし…。

うん…きつかったな…。こっちだって手探りなのに、言われてもねー、有効策が浮かんで出来たら苦労しないわと言いたかった。

発達障害が出て…はっきりしてきてたり(あれ…?程度の差があれ、全く何もない子、誰かいたっけ…?)
進路、すなわち学校選びに悩んだり、普通学級、支援学級、支援学校…。
入学決めるのに、答えのない迷路にはまったり。

それと、今思えば、普通であってほしい、多少なんかあっても紛れるくらいであってほしい、という希望的見通しと願望を諦めきれなかったということもあったのかもしれません。
度合いの見極めが難しいのよねー、幼さとの兼ね合いで。

で、入学してみたら…
他の子と比べて…なんてことよりも、社会に出すんだわーってイヤでも意識がいくことなって。
学習障害もあると、
比較してどうこう言ってる場合じゃなくなるというか。
対処方法と社会へ出るために、最低限何すればいいんだということに悩むというか…。
独り立ちへの長期視野の見通しに悩むことになってる感じかな。

幼稚園時代が、他の子との違いを認識して悩む時期だったとしたら、
小学校は、違っててもなんでも、いつか社会に出てかなくてはならないんだから、どうすればよいか、何が必要か、
人間関係にしろ(これから問題が顕著になっていくんだろうな)、学習にしろ、
社会へ出るまでの月日でゴールに向かい、現実の上で対処を考える時代でしょうか。

結局のところ、いずれの時も、変わらず求められてることは、比較とか定型とかを意識するんではなく、その子の進む時間を意識して、寄り添えるようにすること、でしょうか…。
「待つ」ですよー。
子の中で見えぬ何かが貯まって、次のステップにいける時を。

それが本当にそんな時が来るのか来ないのか、わからないから悩むんですが、
でも、それしかないんですよねぇ…。
それがキッツいんですよね~。保証がほしいのー。保証なく待つってきついんだわー。でも、確実性ないんだわー。
超未で産まれると、何があってもしょうがない感じがある。普通だと思ってて、いきなりっていう衝撃はないし、その経験は出来ないかわりに、常に成長に不安を感じる。

でも、成長は「待つ」しかない。
それをずーっと、やってきてる気がする。
そこ、普通よりも超未育児って、イヤでも鍛えられますねぇ、慣れて達観までいけるかどうかは別ですけどねぇ(私は出来てませんけどねー)。
鍛えられてきたわなぁ、とは振り返って思うのでありました。