実践されなきゃ意味がない | 行動援護人晃介の希有でありふれたマイライフ

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日々の暮らしの中で感じることは…

   

この「優先席だぞ、そこ」とだけSNSに投稿した人が本当にいたとしたら、その人はとても頭がお悪い、と言うかその頭、全然使えていないよネー。

画像を見て見たまんまを言うのはナンセンス。そこが優先席なのは誰が見てもわかることだから。わざわざ時間と労力を使ってせっかく投稿するんだから、だから何なのか…を言わないともったいなくないかい?

それを見てどういうことが考えられ、自分が何を思ったか、自分はどうしたいのか、みんながどうしたらいいのか…みたいなことをネ。

たとえば、「この人、なんか元気そうには見えるけど、もしかしたらどこか具合が悪くてここに座っているのかな? だったらしょうがないけど、とてもわかりにくいな」とか、

「この人は多分元気なのだと思うけど、もしかしたらお年寄りや障がいのある人が乗って来たらすぐに席を譲るつもりなのかも知れないな。もしそうじゃなかったら許せないな」とか、

「ここにすでに誰かが座っていたらあとから来たお年寄りや障がいのある人は、どうせ席は譲ってもらえないだろう…と悲しい気持ちでその優先席まで行くのすらあきらめてしまう場合もあるかも知れないぞ」とかネ。

そうすれば「じゃあどうすればいいのか」「自分だったらこうする」などいろいろ考えあーだこーだと有意義な議論が出来る気がするが。

「そこ、優先席だぞ」と短い言葉だけを言いたいのならネット上ではなく、実際に電車に乗った時に優先席に座っている元気そうな人に直接言ったほうがよっぽど有意義だよネ。言うべき相手はいっくらでもいるから。それは間違いないヨ。

さっき「あーだこーだと有意義な議論が…」と書いたけど、考え直してみるとそんな議論すらもしかしたら意味ないかも知れない。

現状を見ると優先席に健常者(と思しき人)が堂々と座っていて、お年寄りや障がいのある人がその辺りに立っていて、誰も席を譲ろうとしないというシーンが溢れかえっている。

この記事の最初に載せた写真のジョージア大使もおっしゃるように「たとえ健常者が優先席に座っても、お年寄りや障がい者が乗って来たら速やかに席を譲る精神が大切」なのは間違いない。

ただそう考える人は多いと思うが、その大切な精神を実際に持ち合わせている人がほとんどいないのが現実。「スマホに夢中」「譲るタイミングがわからない」「年寄りも障がい者もどーでもいーじゃん」などなどいろいろいて悪意があろうとなかろうと譲らないのだから結局はみんな同じ穴のムジナ。

どんな理由であろうと優先席の優先権を持つ人の権利を奪っているには違いない。それはとても恥ずかしいこと。

議論などしなくても結論はひとつ…としか思えない。「譲り合いの精神」「譲る気持ち」「思いやり」「愛」がある人はたとえ優先席じゃなくどこの席に座っていても譲られるべき人に譲るんじゃないだろうか。

いずれにしても、現場で実践されなきゃやっぱ意味ないよネー。