父親の人生を振り返ることなど今までなかったし興味もなかった。
でも、最近になって高度成長期を支えて来た1人で、たった1人で福岡から大阪に出てきた状況ってどんな感じ?
こうなったら徹底的に聞いてみよう!
と、まずは福岡から来阪に至った経緯や奉公先での働き方などについてまとめていきます。
マルオは福岡県で生まれ中学を卒業後、小倉に丁稚奉公に出ました。
丁稚奉公先では印刷関係の仕事に就き、3年で○○円と、別途貯金をしてくれるというものでした。
1日働いて180円の時代で、1か月の給料から食費や住居代などが引かれほとんど手元には残りません。
昭和33年あたり、日本は高度成長期の真っ只中でかなり忙しかったとのこと。
現代のように残業時間だとか働きすぎという概念はなく、とにかく目の前の仕事を片付けお金に変えるだけという生活。
朝8時から始まった仕事が終わるのは夜中の12時で、休日は日曜日だけ。
そうなんですよね、私が小学校のころ昭和50年代でも一般的に父親の仕事は日曜日が休みでした。
小学校も中学校も土曜日の午前は授業がありましたから、休みは日曜日と祝日だけなんです。今からは考えられませんんね。
毎日普通に残業が8時間、1か月で200時間残業をしていることになります。
そんな中、活躍したのは戦後に登場した「○○○ン」だったとのこと。初めて聞いた単語でした。
調べてみると、登場当初は薬局で普通に販売されていたらしく(合法)、「仕事が好きになる」「疲労がポーンと飛ぶ」というキャッチフレーズで多くの人が利用したようですね。
マルオが「○○〇ン」を使っていたころは既に法律が改正されたあとだったと思うのですが、本人いわく当時は合法だったと言っていましたので、少年たちは知らなかったのか、知っていて知らないフリをして活用していたのか、違法だろうが合法だろうが活用しなければ働けないというところまで追い込まれていたのかは不明です。
仕事仲間みんなが使用して乗り切っていたという、恐ろしい時代ですね。。
確かに、週休2日が普通の現代でもドリンク剤を利用しなければ乗り越えられない忙しさということがありますから、週休1日では考えてる余裕もなかったでしょう。
高度成長期、日本は急速な成長を遂げたと何度もテレビで耳にしたことがありますが、裏では男たちがそんな過酷な仕事漬けの毎日を過ごしていたというわけですね。
もちろん達成感や充実感はあった?ようですし、同じ境遇の仲間たちがいるから頑張れたのかもしれませんね。
そうやって3年が過ぎ、丁稚奉公の期間が終了しました。
マルオに渡されたのは別途貯金の10万円です。当時の大卒の初任給が約1万円という時代でしたのでかなりの大金を退職金としてもらったと思います。
マルオ来阪のきっかけは通天閣!
小倉の会社を退職後、マルオは通天閣を見に行こうと思い立って交通費のみ持って大阪へ。
残りのお金はおふくろに渡したままです。
なぜ大阪へ来ることになったのか、と聞くと丁稚奉公が終わったから通天閣を見に大阪へ遊びに行こうと思ったそうです。
そして、通天閣を見た帰り「住み込み従業員募集」の張り紙を見て即申し込み⇒採用になったとのこと。
交通費だけを持って着の身着のままで大阪で就職が決まり、その日から泊まり込みで仕事が開始。
就職したのは九州時代と同じく印刷会社で、職人として働き始めました。
遊びに行くと言ったまま就職を決めていますから、家には会社の電話を使って「大阪で仕事が決まった」と連絡をしたそうです。
家族はかなり驚いたでしょうね。。
こちらの会社で数年働いた後、とある印刷会社から職人として引き抜きの声がかかったそうです。
マルオの性格から言ってもおそらく全力で働いたと思います。
そして、この時代のあたりで母親のヨシエとの出会いがありましたが、聞くととんでもない運命的な出会いでした。
後日別記事にて書かせて頂きます。
職人として引き抜かれた会社で数年経験を積んだ後、マルオは営業を覚えるため転職をしました。
私の記憶では、小学校4年生のときにマルオが働いていた会社が倒産?廃業のため、いよいよ自営業スタートです。
職人としての力量もあり、営業としてのスキルもあったことから「やれる」自信はそこそこあったのではないかと思います。
性格的に使われるより自分で自由にやりたいタイプですから、マルオにとってはチャンス到来という感じ。
子供たち3人を集めて会社がなくなったので自営業を始めると言っていたシーンが印象的です。
これからは仕事の拠点(事務所)が決まるまで、家に電話がかかってくるから、ポケベルで呼び出してくれというお願いでした。
私を含めた姉弟3人は電話を取るのが面白くて、ポケベルを鳴らすのが面白くてという感じで一生懸命でしたね。