沖縄県の国宝・重要文化財建造物 | 国宝・重要文化財指定の建造物

国宝・重要文化財指定の建造物

全国の国宝・重要文化財に指定された建造物についてのブログです。

このブログについて:

沖縄県内で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

那覇市
玉陵墓室 (東室)、墓室 (中室)、墓室 (西室)、石牆 (1)、石牆 (2)
園比屋武御嶽石門
天女橋
旧円覚寺放生橋
伊江御殿墓
旧崇元寺第一門及び石牆
新垣家住宅主屋、離れ、作業場、登窯
名護市
津嘉山酒造所施設主屋、麹屋
宜野湾市
喜友名泉
南城市
仲村渠樋川
宮古島市
豊見親墓あとんま墓、仲宗根豊見親の墓、知利真良豊見親の墓
石垣市
権現堂神殿、拝殿
旧宮良殿内
旧和宇慶家墓
国頭郡大宜味村
大宜味村役場旧庁舎
国頭郡本部町
瀬底土帝君
中頭郡北中城村
中村家住宅主屋、あさぎ、籾倉、前の屋、ふーる
島尻郡伊是名村
銘苅家住宅主屋、あさぎ
玉御殿墓室、石牆
島尻郡久米島町
旧仲里間切蔵元石牆
上江洲家住宅主屋、前の屋
島尻郡座間味村
高良家住宅
八重山郡竹富町
旧与那国家住宅

 

 

国王が旅路の安泰を祈願した拝所

園比屋武御嶽石門


すぬひあんうたきせきもん
那覇市首里真和志町1丁目
園比屋武御嶽石門26.218096, 127.717326
室町後期
石造一間平唐門、左右石牆附属

園比屋武御嶽石門は那覇市東部の首里城の近くに位置します。国王が外出のときここで旅路の安泰を祈願したといわれ、元来、門としての機能をもつ建物ではなく、御嶽の拝所です。石門背後の森が崇拝の対象です。戦災で大破し、1957年旧位置に復旧されました。
・琉球石灰岩で造られた平唐門の左右に短い石牆を付け、木製の扉を構える

・垂木や懸魚などが彫り出されている

アクセス
ゆいレール首里駅下車、西1kmです。守礼門のすぐ近くです。
見学ガイド
園比屋武御嶽石門は常時自由に見学することができます。

感想メモ
首里城の入口近くにあって、観光客の人通りは多いですが、素通りする人も多いです。もったいない。
(2022年7月訪問)

参考
文化遺産オンライン、現地解説板

 

 

中国南部の様式のアーチ橋

天女橋


てんにょばし
那覇市首里当蔵町1丁目
天女橋26.218483, 127.718687
室町後期
石造単アーチ橋、高欄付

天女橋は那覇市東部の首里城の近くに位置します。1502年、 尚真王は朝鮮国王から贈られた経典を納めるため、円鑑地を掘らせて中島に堂をつくりました。天女橋は、そこに架けられた琉球石灰岩製の橋です。後に堂は壊され、経典も失われたため円覚寺にあった弁財天像を移して祀るようになり、橋は天女橋と呼ばれるようになりました。
・中央を高くした単拱橋(単アーチ橋)で、中国南部のクリークの発達した地方に多く見られる様式
・欄干は、日本の木造の組み方を取り入れたもので、ニービヌフニと呼ばれる細粒砂岩を用いてつくられている

アクセス
ゆいレール首里駅下車、西1kmです。池の中島にかけられています。
見学ガイド
天女橋は常時自由に見学することができます。

感想メモ
以前訪問した時は通行が禁止されていましたが、今回訪問したら天女橋を渡って弁天堂に行けるようになっていました。
(2022年7月訪問)

参考
那覇市観光資源DB

 

 

中国から持ち込まれた輝緑岩製の欄干

旧円覚寺放生橋


きゅうえんがくじほうじょうばし
那覇市首里当蔵町2丁目
旧円覚寺放生橋26.218418, 127.719314
室町後期
石造一間桁橋、高欄付 高欄親柱に大明弘治戊午歳春正月吉日建立の刻銘がある

旧円覚寺は那覇市東部の首里城の近くに位置します。放生橋は、旧円覚寺総門と山門の間に設けられた放生池に架けられた石橋です。親柱の刻銘から、円覚寺の完成よりやや遅れ1498(弘治11)年に架けられたものと考えられています。
・長方形に切り出された4枚の琉球石灰岩を並べて架けた単純なつくりだが、その両側に設けられた欄干はすべて輝緑岩(青石)を用い、羽目は精巧な彫刻が施されている
・輝緑岩は、琉球では産出しないことから、中国で加工し持ち込まれたものであると考えられている

2018年撮影(この頃は境内はきっちりと管理されていた)

アクセス
ゆいレール首里駅下車、西1kmです。
見学ガイド
非公開ですが、少し離れた塀越しに見ることができます。

感想メモ
首里城の復興の関係か、敷地の一部が工事中のようで、敷地内は余り手入れがされていないようでした。蓮が伸びて放生橋が埋もれそうになっていました。以前は逆側からも見ることができましたが、今回は深い水たまりができていて前に進むことができませんでした。
(2022年7月訪問)

参考
那覇市観光資源DB

 

 

亀甲墓の初期の典型

伊江御殿墓


いえうどぅんばか
那覇市首里石嶺町1丁目
伊江御殿墓26.225949, 127.725660
江戸中期
石造墳墓 墓室、サンミデー、ナー、周囲石垣よりなる

伊江御殿墓は那覇市北部の住宅地の中にあります。幅約11m、奥行きが約17m、面積が約140平方メートルで、1687年に築造されたものです。沖縄地方独特の亀甲墓の初期の典型です。
・斜面を切り開いてつくられた石造墓室と、その全面に擁壁および石垣で画された部分からなる
・琉球石灰岩の切石で構築し、主要部分は白漆喰仕上げ
・ヒンプン(屏風)を欠く以外は、ヤジョーマーイ(屋形まわり)、ウーシ(臼)、クー(甲)など近世の亀甲墓に見られる要素をすべて備えている

・墓正面の唐破風のような形状の部分が「眉」で、これが後期のものに比べて低いのが特徴

アクセス
ゆいレール石嶺駅から、徒歩10分弱です。駅からモノレール沿いを首里方面に少し進み、細い水路にさしかかったら右折。水路沿いを進むと右手駐車場の背後に伊江御殿墓の入口が見えます。
見学ガイド
伊江御殿墓の入口には家庭用の門扉が設けられており、訪問時には扉は閉じられていましたが、施錠はされていなかったので、中に入って見学することができました。

感想メモ
深い木立に囲まれた静かな墓所です。霊感の強い人は大変かと思います。
(2020年10月訪問)

参考
那覇市観光資源DB

 

 

歴代王家の霊廟の門

旧崇元寺第一門及び石牆


きゅうそうげんじだいいちもんおよびせきしょう
那覇市泊1丁目
旧崇元寺第一門及び石牆26.220347, 127.690607
室町後期
石造三連アーチ門、左右石牆延長66.3m、各脇門一所を含む

旧崇元寺は那覇市中心部に位置します。崇元寺は1470年頃に創立されたと伝えられる歴代王家の霊廟です。戦災で本堂は焼失し、現在は第一門と石牆のみが残ります。
・右が三連アーチの第一門で、左に脇門を持つ石牆が続く
・石牆には単アーチの脇門が設けられている

内面: 
・中央が第一門で、左右に石牆が続く

第一門外面

左側石牆の脇門(外面)

第一門のアーチ(上段写真)と左側脇門のアーチ(下段写真)(ともに内面): 
・ともに、内周のアーチは要石を持たず、外周は要石を持つが劣化が進んでいるように見受けられる

石牆と附指定の下馬標:
・石牆は複雑な形に加工した石を組み合わせた「あい積」
・下馬標には大明嘉靖6年(1527)の銘がある

アクセス
ゆいレール牧志駅下車、北500mです。
見学ガイド
旧崇元寺第一門及び石牆は常時自由に見学することができます。朝夕は周辺のビルの日陰になります。

感想メモ
旧境内はそれほど広くありませんが、門を潜ると街の真ん中にありながら亜熱帯の植物が繁茂する不思議な感じです。
外周アーチが劣化していて、崩れてしまいそうに見えました。
目の前がバス停になっていて、バス待ちの人がいたり、乗用車が一時駐車に使っていたりして、写真を撮るタイミングが難しかったです。
(2023年1月訪問)

参考
国指定文化財等DB

 

 

伝統的な壺屋陶工の住宅

新垣家住宅


あらがきけじゅうたく
那覇市壺屋1丁目
新垣家住宅主屋26.212570, 127.692942
江戸末期
うふや 桁行8.6m、梁間10.6m、寄棟造、北面突出部付、本瓦葺 とんぐわ 桁行7.0m、梁間9.9m、寄棟造、南面突出部付、東面うふやに接続、本瓦葺
離れ26.212455, 127.692937
明治
桁行6.6m、梁間5.4m、寄棟造、本瓦葺
作業場26.212512, 127.692836
明治
桁行7.5m、梁間5.7m、南面及び西面下屋附属、北面主屋取合部を含む
登窯26.212580, 127.693108
明治
延長22.7m、幅4.0m、連房式登窯、焚場、燃焼室、焼成室9房、排煙口からなる、上屋 桁行19.6m、梁間4.0m、寄棟造、本瓦及び鉄板葺

新垣家住宅は、那覇市中心部、壺屋に所在する陶工の住宅で、1974年まで陶業を営んでいました。伝統的な壺屋陶工の住宅形式を残す唯一のもので、遅くとも明治末年頃までに現在の屋敷構えが整えられたと考えられています。
門口の東側には離れ、西側には作業場があります。正面奥には主屋があり、その東側に登窯を配しています。
西面: 
・左が主屋で右が作業場

西面: 
・中央が主屋で左奥の斜めに伸びた建物が登窯

西面: 
・左が主屋のとんぐわ(台所)の部分で右が作業場

主屋南正面(右端に見切れているのが離れ): 
・うふや(写真中央)と、とんぐわ(写真左)が一体となった造り

離れ: 
・作陶に利用された

作業場: 
・屋根にチブルシーサーをのせる

登窯: 
・9房の焼成室からなる連房式の登窯で、東ヌ窯と通称される

アクセス
ゆいレール安里駅または牧志駅から徒歩10分です。経路は安里駅の方が分かりやすいです。安里駅からモノレールに沿って国道を牧志駅方面に進み、モノレールが右に離れても直進、壺屋大通(大きくないです)を右折します。壼屋大通に入ってすぐの小路を右折すると、右手に新垣家が見えてきます。
見学ガイド
無料で公開されていますが、公開されているのは登窯の下端と離れのみです。主屋も近くから見ることができますが撮影禁止です。公開時間と曜日は限られています。主屋は公道から塀越しに一部を見ることができます。離れと作業場は公道に面しています。登窯は国道沿いの駐車場越しに見ることができます。

感想メモ
敷地内の公開に向けて準備中との表示がありました。公道からもよく見ることができてよかったです。
(2020年10月訪問)
仕事で那覇に来ることが何度かありましたが、公開時間と合わなくて、なかなか来ることができませんでした。やっと中を見ることができましたが、公開範囲が非常に狭くて公道から見るのと大して変わりませんでした。
(2023年1月訪問)

参考
那覇市観光資源DB

 

 

石造の共同水施設

仲村渠樋川


なかんだかりひーじゃー
南城市玉城仲村渠
仲村渠樋川26.145341, 127.792788
大正
石造井泉、いぎががー、いなぐがー、周囲水路、擁壁、拝所、広場、石畳(かーびら)よりなる

仲村渠樋川は沖縄本島南部、南城市の海岸に近い高台に位置します。飲料水、洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水として利用された共同水施設で、もとは木製の桶を置いただけの簡易な施設でしたが、1912年から翌年にかけて琉球石灰岩などを使い造り替えられました。

・中央が男性用のイキガガーで、右の壁の向こうが女性用のイナグガー
・それぞれに洗い場と水槽があり、五右衛門風呂も設置されている

アクセス
那覇バスターミナルから百名行きバスで終点下車。徒歩10分あまりで、少し上ります。
見学ガイド
仲村渠樋川はいつでも自由に見学することができます。

感想メモ
暑い中での上り坂、ちょっと大変でしたが、仲村渠樋川に隣接する公園からの眺めが素晴らしいので、十分報われました。仲村渠樋川は、それほど古い施設ではありませんが古色を帯びた良い雰囲気でした。
(2020年10月訪問)

参考
南城市観光ポータルサイト

 

 

宮古の首長の墓

豊見親墓


とぅゆみゃばか
宮古島市平良西仲宗根
豊見親墓仲宗根豊見親の墓24.808668, 125.279948
江戸中期
墓室、うりがー、周囲石垣よりなる
知利真良豊見親の墓24.809318, 125.280141
江戸後期
墓室、つんぷん、周囲石垣よりなる
あとんま墓24.808343, 125.280126
江戸末期
墓室、周囲石垣よりなる

豊見親墓は、宮古島北西部の市街地の海岸近くに位置します。仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)の墓、知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓、あとんま墓の三つから構成されています。仲宗根豊見親の墓は、15世紀から16世紀にかけて宮古の首長を務めた忠導氏一門が祀られています。知利真良豊見親の墓は、仲宗根豊見親の三男で宮金氏一門の墓で、子孫の寛富が1750年頃造ったと伝えられています。アトンマ墓は、忠導氏の後妻(あとんま)が祀られています。
仲宗根豊見親の墓:
・宮古島古来の風葬墓地(みゃーか)と沖縄本島に見られる横穴式の墓地の折衷形式
・墓室の上部に、短い石柱が立ち並らび、祭祀のときは石柱上部の凹みに桁木をのせ、屋根を覆う

仲宗根豊見親の墓: 
・左下が洗骨のための降り井(うりがー)

仲宗根豊見親の墓: 
・墓室の屋根、石柱とその上端の凹み

知利真良豊見親の墓: 
・様式は仲宗根豊見親の墓と似ている

あとんま墓: 
・岩盤を掘り込み、切り石と組み合わせて構築している

アクセス
空港連絡バスの北小前バス停から500mです。
見学ガイド
豊見親墓は常時自由に見学することができます。

感想メモ
規模の大きなお墓で、本島のお墓とも異なり、マヤの遺跡のような感じがしました。
仲宗根豊見親の墓と知利真良豊見親の墓は道路に面しているので場所は分かりやすいですが、似たようなお墓が周囲にあるので写真を見て確認しました。あとんま墓は奥まった場所にあり現地の案内表示も少しわかりにくくて迷いました。仲宗根豊見親の墓の右側の歩道を上り、道なりに右折したところにありました。
(2021年3月訪問)

参考
宮古島市公式サイト、現地解説板

 

 

中国古来の土地神を祀る施設

瀬底土帝君


せそことーていーくん
国頭郡本部町瀬底
瀬底土帝君26.644718, 127.865562
江戸後期
本殿、拝殿、庭、石段、炉、周囲及び区画の石垣(出入口二所を含む)よりなる

瀬底土帝君は、沖縄本島北部本部半島と橋で結ばれた瀬底島の中央部に位置します。中国古来の土地神を祀る施設で、珊瑚岩を用いて整然と区画された一画に、本殿(イビ)、拝殿(アサギ)、庭(ミャー)が一直線に並びます。建設年代は不明ですが、本殿及び拝殿の軸部石組等の状態から18世紀中頃の造営と考えられています。沖縄本島を中心に各地に存在する土帝君礼拝施設のうち最大級のものです。
・手前が庭で、その背後が拝殿、拝殿の開口部から見えるのが本殿

本殿

拝殿(下段写真は背面)

拝殿内部

アクセス
名護バスターミナルから本部方面行バスで第二浜崎下車、瀬底大橋経由で西に2kmです。
見学ガイド
瀬底土帝君は常時自由に見学することができます。拝殿は内部も見ることができます。

感想メモ
バス停からの距離は少しありましたが、瀬底大橋からの眺めは素晴らしく、瀬底島の長閑な雰囲気も良かったです。
瀬底土帝君は、本土で言うと村はずれの鎮守さんのような雰囲気でした。
帰路、日本一早い本部の花見を楽しみました。
(2023年1月訪問)

参考
文化遺産オンライン、現地解説板

 

 

士族屋敷と農家の形式を併せ持つ地頭の屋敷

中村家住宅


なかむらけじゅうたく
中頭郡北中城村大城
中村家住宅主屋26.289898, 127.800690
江戸後期
うふや 桁行10.7m、梁間9.6m、寄棟造、本瓦葺
とんぐわ 桁行8.5m、梁間8.7m、寄棟造、本瓦葺、東面うふやに接続
あさぎ26.289810, 127.800795
明治
桁行8.6m、梁間7.5m、寄棟造、本瓦葺
籾倉26.289818, 127.800662
明治
桁行4.8m、梁間3.9m、高倉、寄棟造、本瓦葺
前の屋26.289867, 127.800546
明治
桁行10.4m、梁間5.9m、二階建、寄棟造、本瓦葺、主屋取合部を含む
ふーる26.289957, 127.800532
明治
石造、間口6.4m、奥行4.7m、周囲石牆及び豚舎よりなる

中村家住宅は沖縄本島中部、中城の丘陵地に位置します。中村家は、中城城主とともにこの地に移ってきたと伝えられ、その後、中城城陥落で離散しましたが、1720年頃には家運を盛り返し、この地の地頭職に任ぜられました。
現存する建物は18世紀中頃に建てられたと伝えられています。士族屋敷の形式に農家の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随しています。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切りひらいて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植えています。
・手前の建物が籾蔵で、奥に長く伸びるのが主屋
・主屋の右半分がうふやで左半分がとんぐわ

・左が主屋のうふやで、右があさぎ

・右の屋根が前の屋で左が主屋、中央奥の屋根が籾蔵
・手前の石囲いがフール

主屋のうふや: 
・表に一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)、裏には各一間づつ裏座があり、寝室、産室として使用された
・畳間は、当時の農民に許された六畳以下の大きさ

主屋のとんぐわ(台所): 
・屋根裏部分を物置(主に薪や食料)として使用していたため、この部分の屋根はうふやよりも低い

主屋の背面: 
・左がうふやで右の通気口の付いた一段低い屋根がとんぐわ

主屋の屋根: 
・明治中頃に竹茅葺から本瓦葺漆喰塗りに改められた
・屋根の上にシーサーを置く

あさぎ(離れ座敷): 
・首里王府の役人が地方巡視で中城の板書(役所)に赴いた際に、宿泊所として使用された

あさぎの軒丸瓦の装飾

籾蔵前面(上段写真)と背面(下段写真):
・高倉形式だが丸柱ではなく住居と同じ角柱を用い、壁、床とも板貼りであるのが特徴:
・軒裏にはネズミ返しの傾斜
・上段写真右側は主屋

前の屋(メーヌヤー、家畜小屋兼納屋):
・一階は腰石壁で畜舎、二階は黒糖製造用の薪置場
・畜舎の柱は石壁と凹凸に噛み合わされて、牛や山羊をつないでおいても、柱が土台からはずれないように工夫がこらされている

・左が前の屋で、右が主屋のとんぐわ部分
・両者の取り合わせ部は前の屋の一部

フール(豚の飼育所): 
・アーチ型の三基連結の石囲い

アクセス
那覇バスターミナルから高速バスで喜舎場下車、2.1kmです。一般路線バスの場合は石平下車、2.5kmです。ともにバス停からコミュニティバスを利用できます。
見学ガイド
中村家は有料で公開されています。内部も見ることができます。

感想メモ
10年以上前に訪問して以来の2度目の訪問です。琉球村と記憶が混同している部分がありましたが、立派なお屋敷で裏にふーるを上から眺めることができることなど、断片的に記憶が残っていました。住宅を取り囲む石塀の上を一周することができて、美しい赤瓦屋根の連なりを見ることができました。
本島内橋乗り放題のチケットを利用して訪問しました。お得なチケットですが、意地悪なことに高速道路経由の路線は利用できないことになっています。Googleで検索しても高速経由の路線しか出てこないし、ちょっと苦労しました。石平からはずっと緩い上りで、真冬でも少し汗ばむくらいでした。
(2023年1月訪問)

参考
中村家住宅公式サイト

 

 

公用船の船頭職の屋敷

高良家住宅


たからけじゅうたく
島尻郡座間味村慶留間
高良家住宅26.177058, 127.293017
明治
桁行12.7m、梁間8.7m、寄棟造、本瓦葺、玄関附属

高良家住宅は慶良間諸島の慶留島南端に位置します。高良家は、船頭主屋と呼ばれる旧屋で、琉球王府時代に末期に公用船の船頭職を務めた仲村渠親雲上が中国交易によって19世紀後半に建築したといわれています。建築当時は茅葺で大正年間に赤瓦葺きに改められました。
・周囲よりも少し低い土地に建ち、それを高い石塀で囲って台風の被害を避けている
・正面向かって左側の部分は大正時代に増築されたもので、建築当初は正方形に近い平面

玄関:
・破風に隙間を設け、天井裏の通気を図っている
・向かって右の柱には太平洋戦争で米軍が上陸した際の弾痕が残る

一番座:
・玄関を入ってすぐの客間で、本土の古民家の押板のような床の間を持つ
・左隣は二番座で仏壇がある

石塀: ・ちぶる石(サザナミサンゴ)を用いたもので、ヒンブンとともに重要文化財に附指定されている

アクセス
阿嘉港から南に2.5km、海沿いの快適な道のりです。港周辺にはレンタサイクルもあります。阿嘉大橋の上り下りと慶留間の集落の入口以外は平坦です。
見学ガイド
高良家住宅は有料で公開されています。内部も公開されています。昼食時間中は入場することができません。塀が高いので公開時間以外には外観もほとんど見ることができません。

感想メモ
那覇から日帰りで訪問しました。フェリーで阿嘉に着いて景色を堪能しながら徒歩で訪問。到着したら何と昼食で休憩中。本当に今日は開館するのかちょっと心配しながら、奇麗な海をボケっと眺めて1時過ぎに戻ったら門が開いていました。良かったです。
管理人さんに建物の歴史について分かりやすく解説していただきました。建物には太平洋戦争中の大きな弾痕があって、慶良間の戦時中の出来事が改めて胸に突き刺さりました。
(2023年1月訪問)

参考
環境省公式サイト、現地パンフ、現地解説