675年、伊勢神宮へ行って来た十市皇女は三年目にして678年4月7日に亡くなりました。 前もって引用した『日本書紀天武7年4月条』をまた話さなければならないようです。

 

日本書紀 天武7年(678) 4月 7日

癸巳食卜. 仍取平旦時警蹕旣動. 百寮成列. 乘輿命蓋以未及出行. 十市皇女卒然病發薨於宮中. 由此鹵簿旣停不得幸行. 遂不祭神祗矣.

癸巳(7日)が吉日だということで占いが出た。そのため、午前4時頃の時間を選んで先発隊が出発した。 百寮が列を成し、天皇の乗った輿がちょうど門を閉めて出かけようとした時、十市皇女が突然発病し宮中で亡くなった。このため天皇の行列は停止して出られなかった。結局、神祇に祀れなかった。

 

4月7日のこの日は、先に占いをして天皇が直接神々を祭ることにした日です。 奈良の倉梯川の上流に斎宮を作り、天武天皇が宮を出ようとしたら、十市皇女が亡くなったという悲報が伝わったものです。

 

前年の677年、日本は非常に厳しい時期でした。夏旱魃(かんばつ)が続き、6月14日に大地震が発生しました。 日本全体に大きな災難でした。 それで日付を決めて4月7日、天皇が直接祭祀を行うことにし、天武天皇が宮を出る瞬間、十市皇女の悲報が伝わったのです。 結局この祭祀はなくなりました。

 

日本書紀では、病死といわれます。病の前触れもなく、急死というわけです。 それも宮中でです。 懐風藻の内容通りにお嫁に行ったなら宮中に住んでいたというのもおかしいです。 ここでも毒殺説と自殺説が出てきます。 宮中では4月7日の祇園祭のために4月1日から忙しく回っていました。 この時宮殿にいたら「十市皇女」も第1皇女として祭礼で巫女への責務もあったはずです。 675年に15歳だったとしたら、678年は18歳になる年です。 この時期が婚談の決定に適した16歳~19歳の時期です。 お母さんが一緒だったら、もうお嫁に行かせてもらっていたかもしれません。

 

天武天皇は長女の葬儀を迎えます。 その日の様子を日本書紀が伝えています。 4月13日雷が宮の新宮に落ちました。 そして14日、十市皇女のお葬式が始まりました。

 

日本書紀 天武7年(678) 4月 14日

庚子. 葬十市皇女於赤穗. 天皇臨之降恩以發哀.

庚子(14日)に十市皇女を赤穂に埋葬した。 天皇が葬儀に出席し、「恩情」を施して哭いた。

 

天武天皇は長女の葬儀に出席し、声を出して泣いたといいます。 お父さんにとって長女はとても大切な存在だからでしょうか! 子どもの葬儀に天皇は参列しないのが通例だそうです。 しかし、天武天皇は神々への祭祀も取り消し、長女の葬儀であまりにも悲しんでいます。 予測できなかった死だったからでしょうか! どんな死だったから、こんなに悲しく泣くのでしょうか! 天皇のお父さんが守ることもできない死だったのでしょうか! 一日も二日も死の予兆のない若い皇女の病死を誰が信じることができるでしょうか!

 

続きます…