万葉集は第一巻七番歌の作者として額田王を紹介しており、題詞では「額田王歌 未詳」と書いています。 作者には額田王と書き、題詞では額田王の歌なのに分からないということです。 なぜ相反する2つの内容を最初の行と2行目に同時に書いているのでしょうか。 結局、作者を額田王とするには問題があるということでしょう。(歌が作られた時期について少し探って見てまた作者について論じます。)
歌の詠まれた時期は、題詞において「明日香川原宮御宇天皇代」と記されています。 「飛鳥の川原宮の天皇の時代」です。 日本では、時代を表す際に、ある天皇の時代だけではなく、当時の天皇の住居である宮を表しています。 古代には天皇がいろいろな邸宅を移すことが多かったのですが、それで天皇のいた邸宅を「~宮」と呼んでいたようです。 ところで、ここで示された「飛鳥の川原宮」は、斉明天皇が住んでいましたがその期間は非常に短いのです。
655年(斉明1年)に板蓋(いたぶき)宮から斉明天皇に重祚(再び天皇の位に就き)されましたが、その年の冬、火事により川原宮に移されました。 翌年、後岡本宮が完成し、移設されますが、そうすると河原宮では、655年の冬(11月頃と推定)から656年の秋(10月頃と推定)までの約1年間滞在することになります。 ところが、その後岡本宮も一か月後(656年10~11月)に放火により焼失し、田中宮に移されてしまいます。 次の歌、八番歌の題詞には「後岡本宮御宇天皇代」が登場します。 つまり七番歌は、斉明天皇が河原宮にいた時、655年11月~656年10月の間につくられたものと言えます。 八番歌を「後岡本宮御宇天皇代」に作ったのも問題ですが、ここでは論じずに、八番歌について考察の際にお話ししましょう。
万葉集は巻物として初めて編纂されました。 右側から文章を書いてくるので、左側が文章の最後になります。 この歌の左の方にある注を見ると、
[左注] 右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌 但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦
訳> 右(歌)を検討してみると、山上憶良大夫の類聚歌林(山上憶良の個人文集)にいうところ、一書に戊申年に比良宮へ行幸した際の天皇の歌である。 但し、「(日本書)紀」は斉明5年1月3日に斉明天皇が紀温湯から帰り、3月1日に吉野宮で宴会を催した。 3月3日、斉明天皇は近江を訪れて平浦に行った。
これを具体化してみると、一書(どんな本かはわからない)では、戊申年(648年)に比良宮に行幸した天皇の歌である。 つまり648年といえば孝徳天皇の時で、孝徳天皇が比良宮へ行幸した時に天皇が作ったものになります。(しかし不思議なことに万葉集には孝徳天皇の歌が伝わっていません。日本書紀には、孝徳天皇の歌一首が伝えられています。 そういえば歌を詠むことができなかったわけでもないのですが、当時の天皇として詠んだ歌が万葉集には伝わっていません。 その理由は別にします)。ところで、日本書紀は齊明5年(659年)1月3日に斉明天皇が紀温湯から帰り、3月1日に吉野宮で饗宴を催した。 三月三日、天皇は近江へ行幸して平浦(ひらのうら)へ行ったとしております。
孝徳天皇の 比良宮と斉明天皇が行った平浦は同じ地域に見えて、ここへ行くにつれ宇治を経て、昔のことを思い出しながら歌を詠んだということを言いたいようです。
比良(ひら); 滋賀県滋賀郡志賀町と大津市堅田との境界で、琵琶湖の西岸に沿った比良山地の中の高峻峰である。「万葉集」 巻一に見える孝徳天皇の 「比良宮」 があるところである。
歌の最後に付いている左注によると、山上憶良はある本と日本書紀を引用し、2つの時期と作者を示しています。
① 648年 孝徳天皇
② 659年 3月3日 斉明天皇
ここでは、題詞において提示された時期を共にあらわすと、
③ 656年を前後した斉明天皇となります。
題詞と左注を見ると、この3つの可能性がありますが、編集者が「作者に推薦したのに分からない」と言った額田王は、斉明天皇の嫁であり、斉明天皇を最寄に補佐した一人です。 または万葉歌人としても知られています。 こうして見ると、額田王が歌を作ったとしても、代筆したとしても、この歌の主人公は斉明天皇のようです。 では、作者として①の孝徳天皇は除外できそうです。
中西進は題詞を構成する要素として「a作者 b 日時 c 場所 d 事情」を表し、これらのうち一部要素が欠落して万葉集全体には雑多な形で表れるとしています(万葉集の編集原理)。
七番歌の題詞は「日時」について何よりも精密にとりおこしています 最大誤差が6ヶ月ですから。 再び題詞を引用してみると、
[題詞] 明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]
訳> 明日香(飛鳥)川原宮へ御宇天皇代「天豊財重日足姫天皇(皇極·斉明天皇の日本式
川原宮では655年冬(11月頃と推定)から656年秋(10月頃と推定)までの約1年間滞在した場所ですから、この歌を作った時期は655年11月~656年10月と推定されます。
続きます。
