天武天皇はなぜ二人の皇女を伊勢神宮に送ったのか?

 

この日一緒に行った阿閇皇女は、天智天皇の娘として661年生まれです。後に天武天皇の皇太子である草壁皇子の夫人となり、43代元明天皇となります。 当時675年には14歳です。

一方、二人の皇女が目指す伊勢神宮には、斎宮として大伯(=大来)皇女が来ていました。 大伯皇女は天武天皇の第二皇女で661年生まれの同年14歳になります.

 

日本書紀 天武3年(674) 10月 9日

冬十月丁丑朔乙酉. 大來皇女自泊瀨齋宮向伊勢神宮.

冬10月、正丑朔乙酉(9日)に大来皇女が初瀬宮から伊勢神宮に移した。

 

大伯皇女は天智天皇の第一皇女であり、天武天皇の夫人である太田皇女の娘であり、後に謀反の濡れ衣を着せられて死ぬことになる天武天皇の第三皇子である大津皇子の実姉となります。

 

天武天皇の代になって、その間途絶えていた伊勢神宮に再び斎宮として皇女を送ることになります。 そして第2皇女の大伯皇女が指名されたのです。当時の皇女なら、少なくとも第1、第2皇女ならある程度巫女的な職務を行うことになります。

 

上に示した日本書紀の天武3年(674年) 10月 9日條をみると、大伯皇女が673年2月13日に泊世の斎宮となり、674年(天武3年)10月9日に伊勢神宮に移します。

 

大伯皇女が皇居を離れ、伊勢の齋宮(=神宮の最高責任者)として行くことになったのは、皇居において内命婦の暗闘が働くようになります。天武天皇の10人の妻のうち誰が自分の娘を巫女に送ろうとするでしょうか! 大伯皇女の母、大田皇女は、大津皇子を産んだ663年に亡くなりました。彼らを守る勢力がないのです。皇后の鸕野皇女は太田皇女の実弟ですが、自分の息子を皇太子に擁立するために実姉の太田皇女の子は不便だったのでしょう。 そして天武天皇の代の初の斎宮として大伯皇女が指名されたのです。

 

ところで、この大伯皇女が674年10月9日、伊勢神宮へいくときの日本書紀の記録にはありませんが、『比売神社来歴』で鏡神社から配布した資料に、伊勢神宮まで十市皇女がいっしょだったという話もあります。第一皇女と第二皇女の友愛とも受け取れますが、年齢が似ていないと、これもまた父なき子持ちの25歳の母がしにくい状況になります。

 

天武天皇は675年2月13日、伊勢神宮へ二人の皇女を送ります。 なぜ送ったのか諸説あります。

①「壬申の乱」の戰勝を伊勢神宮に報告する目的であるという説

→既に第2皇女を伊勢神宮の齋宮に送ったので、このような目的はすでになされたと考えられます。

 

② 日本書紀には、天皇4年(675年)1月に薬や貴重品が朝廷に献上された記録があることから、これを伊勢神宮に送るために彼女らが派遣されたという説です。

→ これが目的なら、皇女を二人も行かせる理由はありません。

 

③ 天武天皇が「壬申の乱」で大友皇子を退けて即位する際に、自分の息子である草壁皇子を皇太子としたので、皇太子の交替をそれぞれの妃に伊勢神宮に報告させたという説です。

→ 天智天皇の皇太子である大友皇子の妃が十市皇女(懐風藻の引用となれば)、天武天皇の皇太子に決定された草壁皇子の妃が阿閉皇女なので、その各々の妃に伊勢神宮へ行って報告することになります。十市皇女にはあまりにも残酷な仕業になります。十市皇女には、私の夫の大友皇太子は、父との戦争に敗れ、死んたので皇太子の座から退いたと知らせろということです。 そんなことができたんでしょうか。また、阿閉皇女が草壁皇子と結婚したのは、伊勢神宮に行ってきて4年が経った679年です。 目的も時期も合わないんです。

 

それでは天武天皇は、なぜ二人の皇女を伊勢神宮に送ったのでしょうか。第2皇女の大伯皇女を心配する父の心ではないかと思います。 母もなく力もなく奥の王女となり、巫女として幼い年で齋宮になり、寂しい日々を送っている娘のために、同じ歳の皇女を送り、慰めようとしたのではないでしょうか! 奥において十市皇女と大伯皇女は並んで第1皇女と第2皇女の地位にありますが、母のいないいじめという似た境遇でした。 もちろん十市皇女の母である額田王は生きていましたが、天武の懐を離れ、天智天皇の恋人となり、今が天智天皇の死の時だからです。 それに同い年で、天智天皇の皇女、阿閇皇女が加わったのです。 みんな奥では力のないいじめっ子です。

 

大伯皇女と阿閇皇女は同じく661年生の675年に同じく14歳です。では十市皇女は懐風藻で記録した通りに子ども付き25歳の婦人だったのでしょうか。 万葉22番歌は清らかで美しい十市皇女を歌っています。ということは、この状況にあわせるためには15~16歳くらいの年齢ではないでしょうか! 日本書紀675年2月13日の条には、阿閇皇女の前に十市皇女を記しています。 これは十市皇女の年上ということです。 日本書紀は皇女·皇子を記述する際、年齢順·身分順を考慮します。 この時、十市皇女の年齢を15歳と仮定すると、660年生まれになって、葛野王が生まれる669年は10歳ぐらいになり、葛野王を産む母親では合わないです。(http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage1.htm)

 

続きます…