十市皇女の死を悼むもう一人

 

十市皇女の死に、その母の額田王の面影はありません。 どの史書も文集にも子どもの死に直面した額田王の動向について触れておりません。 葬儀場にはあったんじゃないでしょうか。 飛鳥という同じ垣根の中に住んでいたはずなのに。 額田王の置かれた状況は主君の斉明天皇も二番目の夫である天智天皇もこの世を別にし、自分が捨てた天武天皇の時代にたった一人娘が死んだだけです。 万葉集最大の歌姬である額田王の歌は、この娘については何の問題も残していません。 当時の額田王の状況が推察でき、理解できます。 娘の死に対する哀悼は気持ちでのみ込まれるべき状況だったようです。

 

ところでここに十市皇女の死を悼むひとがいました。 天武天皇の第1皇子であり、十市皇女と年齢が最も近い高市皇子です。 万葉集には「十市皇女が亡くなった時、高市皇子が尊敬して作った歌三首」が伝わっています。

 

第2巻 156番歌

[題詞] 明日香清御原宮御宇天皇代 [天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇] / 十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首 [※ 明日香清御原宮=飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや) : 672年(天武1)から藤原宮(ふじわらのみや)へ遷都する694年(持統8)までの天武・持統両朝の宮]

[原文] 三諸之神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多

[訓読] みもろの神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き

[かな] みもろの かみのかむすぎ ***** ******* いねぬよぞおほき

[左注] (紀曰七年<戊>寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中)

[①日本語現代訳] 三輪の神の杉を夢にでも見たいものだが、(悲しくて)眠られぬ夜が多い。

[②日本語現代訳] 三諸山の神杉に過ぎ去った人を惜しみ、影にその人を見て寝むれぬ夜が続く。

[③最少音借解讀 by 韓甲祚]

三人一緒にゆくね。神にいって神に須く伺いなさい。すでに耳にしたことがある。

自ら悟り、見て、探ると, つかの間も共に寝れない夜が繰り広げられる。

 

第2巻 157番歌

[原文] 神山之山邊真蘇木綿短木綿如此耳故尓長等思伎

[訓読] 三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき

[①日本語現代訳] 三輪山の山辺の真麻木綿(まそゆふ)も短木綿(みじかゆふ)も短い故に亡くなってしまったのか。もっと長生きしてほしかったのに。

[②日本語現代訳] 三輪山の山辺に祭る短い木綿, 短い契りであった, 長くと願いながら.

[③最少音借解讀 by 韓甲祚]

神のいる山に行くね! 山邊には真に蘇った木が続き、短い木が続く。

当然、今だけでなければならない。 故人が長年連れ添った懐かしい人であることを。

 

第2巻 158番歌

[原文] 山振之立儀足山清水酌尓雖行道之白鳴

[訓読] 山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

[①日本語現代訳]

まっ黄色な山吹の花々に彩られた山清水(泉)に水くみに行きたいのだが道が分からない。

黄泉(よみ) ; 黄泉の国(=死者の国)

[②日本語現代訳]  山吹の山清水を汲みに行こうともその道がわからない

[③最少音借解讀 by 韓甲祚]

山を振りながら行って、立てられた儀礼を守る。

山の清らかな水を飲むことを勧めても、いく道をゆきながら話さない。

 

原文を現代語で解釈しておいても簡単に理解できません。 原文の解読は後にして、理解できる部分だけ要約してみると156番の歌は彼女を懐かしんで眠れない夜が続くという意味だと思うし、157番の歌は彼女がもっと長生きすることを願うという意味で、158番は彼女のそばに行こうとしても道が分からないという意味だと思われます。

 

私も漢字の意味を主として、助詞など一部だけ音借して解釈した結果、それぞれの歌の③番目の解釈につけました。 キム·ヨンヒさんの報言と請言を歌詞から除外する方法とは少し異なります。 ここでは解読方法を論じようとする文ではないため、その結果だけ提示しておきました。 歌詞と内容が少し違うように感じられます。

 

周りの多くの人の中でただ高市皇子だけが彼女が懐かしくて、早く死んで残念で、彼女のそばに行きたいと言っています。 そこでまた、高市皇子と十市皇女の関係が恋人関係なのか夫婦関係なのかという諸説も生まれます。

 

ここに決定的な役割を果たすのが、156番歌の中間部分の語句です。

 

‘三諸之神之神須疑已具耳矣自得見監乍共不寝夜叙多’

 

万葉集第一券を編集する時、編集者が「訓読」が出来なくて、「已具耳矣自得見監乍共」の原文をそのまま引用する部分です。 だから、編集されてからさまざまな解釈が伝えられています。 ところで、「不寝夜」を「ともに眠れない夜」と解釈し、これらはすでに夫婦関係または婚約関係にあるという説の強力な証拠として採択されています。

 

677年、678年は大震災が毎年起こり、旱魃や飢饉が続く時期でした。 この時、天武天皇が神々に祭祀を行うと準備していました。 天武天皇の第1皇女として十市皇女は巫女としての役割もあったはずです。 ところが678年4月7日、天武天皇が祈願祭を執り行うために宮殿を出る際、十市皇女の死の悲報が伝わったのです。 日本書紀は根拠なく病死だとしても、天皇の祭礼に出る巫女としての負担から自殺ではないでしょうか。 処女性を持つ「天皇の第1皇女」として、「天皇の祭礼」で巫女の役割を果たさなければなりませんが、愛を分かち合う体を持たず、「父天皇の巫女」として祭礼に参加する負担が彼女を自殺に追い込んだのではないでしょうか!

 

18歳にして自ら命を絶った長女の遺体の前で、父の天武は号泣したのだと考えられます。

 

終了