Wolf, R.I.P. | Kobakenの「努力は必ず報われる!」

Kobakenの「努力は必ず報われる!」

この世で最も美しいものは、無意識の親切(by Kobaken)

7月も終わろうとしていた昨日、耳を疑うようなニュースが飛び込んできた。


第58代横綱・千代の富士の九重親方死去


ウルフが死んだ? 私は外出先から帰る途中の電車の中で、大声で叫びそうになった。

もし叫んだら、同じ車両に乗っている中年たちが、「あんちゃん、それは本当なのか?」と確かめたことだろう。



九重貢。本名は秋元貢。昭和30年6月1日、北海道松前郡福島町で誕生した。

入門のきっかけは、「手術」だった。中学時代に盲腸炎を患い、手術を受けたのだが、腹の筋肉が厚かったため執刀医が手こずり、そうこうしているうちに麻酔が切れてしまった。それでも痛みに耐える秋元少年に感服した医師が、知り合いだった当時の九重親方(第41代横綱・千代の山)を紹介し、入門に至った。口説き文句は、「飛行機に乗せてやる」だった。当時、飛行機に乗るというのは珍しい経験で、郷里の福島町長すら乗ったことのない乗り物だった。こうして、中学在学中の昭和45年夏に飛行機で上京し、九重部屋に入門。秋場所で初土俵を踏んだ(当時は中学生の入門が許可されていたが、昭和46年より禁止となる)。


のちの大横綱としては珍しく、スピード出世とは程遠かった。同世代の北の湖(第55代横綱)は瞬く間に番付を駆け上がって21歳で横綱の座をつかんだ。しかし、北の湖が横綱になった頃、千代の富士は新十両。そして、昭和50年秋場所で入幕した。とはいえ、関取になった当時で19歳、入幕時点で20歳、初土俵から5年での入幕だから、遅いとは言えない。その頃から「ウルフ」の異名を取ったのだが、この異名の由来は土俵上の相撲ぶりではなく、ちゃんこに出す魚をさばく仕草がオオカミに似ていることからついたという。


だが、千代の富士はこの頃から、生涯ついて回る「脱臼」に苦しむようになった。当時の伊勢ヶ濱親方(元大関・清國)がうまく肩をはめることができることで有名だったが、千代の富士の肩は伊勢ヶ濱親方にはめてもらっても何度も外れた。思い切って休場に踏み切り、肩に筋肉の鎧をまとって外れにくくした。脱臼に苦しんでいる間に、「入幕後幕下陥落」「三役昇進後十両陥落」という、大横綱には珍しい回り道をしている。また、その間に、自らをスカウトしてくれた師匠の九重親方が逝去し(昭和52年)、部屋は兄弟子の第52代横綱・北の富士が継承した。


さらに、貴ノ花(元大関、前・二子山親方)のアドバイスでタバコもやめ、健康にも気を遣うようになったことが、のちの相撲人生での出世につながった。千代の富士フィーバーが巻き起こったのは、昭和56年だった。年明けの時点ではまだ関脇だったが、春場所で新大関に昇進。大関3場所目の名古屋場所では綱取りに挑戦。千秋楽に北の湖を撃破し、2度目の優勝と第58代横綱の座を同時に手中にした。


しかし、新横綱として迎えた秋場所はライバル・隆の里(第59代横綱、前・鳴戸親方)との一番で足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見た。だが、九州場所では千秋楽に朝汐(のち大関・朝潮、現・高砂)との優勝決定戦を制し、3度目の優勝。以後、平成元年に小錦(元大関、現タレント・KONISHIKI)が制覇するまで、8年連続で九州場所を制した。細身の筋肉質な体型と精悍な顔立ち、豪快でスピード感あふれた取り口から、若い女性や子供たちの間でも人気を博し、アイドル的な人気を得て「ウルフフィーバー」を日本に呼び起こした。


この当時、力士は30歳を迎えると「引退」という言葉がちらついてくる時期に差しかかる。しかし、千代の富士の全盛期は、むしろ30代に突入してからだった。昭和63年には、33歳だったが、夏場所7日目から九州場所14日目まで、当時歴代2位の53連勝を記録した(平成22年に白鵬が63連勝まで伸ばしたため、現在は3位)。奇しくも昭和最後の取組となった九州場所千秋楽、同じ横綱の大乃国(第62代横綱、現・芝田山)に敗れている。


また、子煩悩パパとしても知られ、片手に天皇賜杯、もう片方の手に子どもを抱いている写真が何枚も雑誌の表紙を飾った。昭和58年に誕生した優さん、昭和61年誕生の剛さん、昭和62年誕生の梢さんも賜杯を抱いた父に抱かれており、元号が平成に変わってから誕生した三女の愛さんも平成元年春場所で写真に納まった。だが、その3カ月後、愛さんは乳幼児突然死症候群により、わずか4カ月という短すぎる生涯を終えた。千代の富士の精神的なショックは大きく、師匠・九重親方も「相撲どころではない」とコメントしていた。直後に行われた名古屋場所では「土俵に上がることがせめてもの供養」と、数珠をかけて土俵に上がった。その場所、千秋楽で弟弟子で同じ横綱の北勝海(第61代横綱、現・八角)を破り、奇跡の優勝を果たすという、感動的なシーンを作り出した。秋場所では通算白星の新記録を達成し、平成元年9月28日、相撲界からは初の国民栄誉賞を時の内閣総理大臣である海部俊樹より授与された。相撲協会もこの功績を大きく評価し、引退後の一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は「自分だけで終わってしまうのは望ましくない」という理由で辞退している。


35歳になり、横綱在位も10年目に入ると、長く闘ってきた身体は限界を悟り始めていた。平成3年夏場所初日、日本中が待ち望んだカードが実現。この1年前に入幕したばかりの18歳の貴花田(のち第65代横綱・貴乃花、現・貴乃花親方)との取組に、日本中が沸いた。実は、これより10年前、貴花田の父である貴ノ花は千代の富士に敗れたことで引退を決意したのだ。父の因縁の相手を、わずか18歳の若い息子が破り、貴花田の人気が高まった瞬間となった。千代の富士はこの貴花田を「勢いのある若手が出てきた」と絶賛し、引退を決意。最後の取組は同場所3日目で、新鋭の貴闘力(元関脇、先代大嶽)に敗れた日に引退会見を開いた。「ウルフ」と呼ばれた大横綱が身体を小さくし、目を真っ赤にしながら、「体力の限界!」と振り絞った。


引退後は年寄「陣幕」を襲名し、九重部屋で指導に当たっていた。しかし、平成4年4月、師匠の九重親方が50歳ではあったが、まだ36歳と若い陣幕に部屋を譲渡することを決意し、名跡交換を経て千代の富士が部屋を継承した。その直後の夏場所前、若い頃に同じ部屋で鍛えてきた弟弟子の北勝海が腰痛悪化のため、28歳で引退。九重は新師匠として弟弟子の引退会見に同席した。大きな看板を失った九重部屋だが、カリスマ的人気を誇った千代の富士が継承したということで、ここからの数年間は入門する新弟子が後を絶たなかった。しかし、師匠との軋轢がこの頃から生じ、平成5年秋場所後にやはり自分の弟子にあたる北勝海が九重部屋から独立して八角部屋を興すと、陣幕は君ヶ濱(元関脇・北瀬海)、谷川(元前頭4、白田山)を連れて、こぞって八角部屋に移籍した。九重は30~40人を誇る所属力士を一人で指導しなければならなくなった。


千代の富士が部屋経営者として注目されたのは、平成11年初場所だった。この場所、関脇4場所目の愛弟子・千代大海(元大関、現・佐ノ山)が横綱・若乃花(第66代、現タレント・花田虎上)を追う形で優勝を争っていた。千秋楽、1差でリードする若乃花を本割で降して優勝決定戦に持ち込む。優勝決定戦では、はじめは微妙な判定で物言いがつき、取り直しの一番で千代大海の逆転優勝が決定。天皇賜杯は当時審判部長だった九重が直接手渡した。また、大関取りの場所でもあったため、新大関の座も同時に獲得。愛弟子は一夜にして人気者となった。実は、千代大海は九重が継承した年に入門した新弟子だった。中学時代は手のつけられない不良少年で、卒業後は高校にも行かず、就職もせず、悪い仲間とつるんでいるというすさんだ生活ぶり。見かねた母親が、「何のために育てたのかわからない。もう私は死ぬ。でも、あんたも一緒に死のうか」と息子に包丁を突きつけると、龍二少年(千代大海)は「相撲に行くから九重部屋に連絡してくれ」と言って母親を驚かせた。相撲のことをよく知らなかった大分の不良少年までもが知っている「最強の存在」のもとで修行を積むこととなり、さっそく九重部屋を訪問。その時、九重は剃り込みの入った金髪の頭を見て「それをなんとかしてから来い!」と一喝。悪童がすくみ上がり、丸坊主にすると、「親孝行がしたくて入門した」という動機を聞いて入門を認めた。そんな愛弟子とともに、平成11年2月には大分で優勝パレードを行う。先導していた警官いわく、「昔は白バイで追いかけ回した奴を、今は先導するようになった」。千代大海を更生させ、大関まで育て上げたという点でも、師匠としての功績は大きい。その後、千代大海は3度の優勝を果たし、史上最長となる大関在位65場所を記録した。


九重は平成20年の役員改選でようやく理事に就任。審判部から離れ、テレビ解説も務めるようになった。また、私生活では、平成21年に次女の梢さんがモデルとして芸能界デビュー。長い黒髪に切れ長の目が特徴的の美女は、優勝31回(引退時歴代2位、現在は3位)、通算白星1,045個(引退時歴代1位、平成23年に魁皇に抜かれる)を誇る偉大な父親を「どこにでもいる普通の父親」と、さらりと言ってのけた。九重も、娘の芸能活動には特に反対せず、「好きなことをやりなさい」と応援していた。これより21年前の5月に天皇賜杯と一緒に父親に抱かれていた赤ちゃんが、美しい女性になってモデルデビュー。芸能関係者はもちろん、千代の富士の現役時代を知る人からも注目を集めた。


しかし、娘が華々しく芸能界デビューを果たした裏では、愛弟子の千代大海が糖尿病と闘っていた。平成21年春場所では皆勤した大関としてはワーストとなる2勝止まり。8勝を挙げるのがやっとという状態で、いつ引退してもおかしくなかった。同年九州場所、15度目のカド番で迎えた千代大海は、3日目から8連敗で負け越し、11年間務めた大関の座を明け渡すこととなった。九重が横綱になった頃に師匠・北の富士が「ウルフ、辞めるときは潔く、スパッと辞めような。ちんたらちんたらやるなよ」と忠告をしていたのだが、この忠告は北の富士の孫弟子には受け継がれず、千代大海が「関脇陥落の場所で10勝して特例復帰ができたら現役続行、6敗して大関復帰の望みが絶たれたら引退」と、潔さを欠いたような決断をし、それを師匠の九重が認めたため、「辞めるときは潔く辞めるのでは?」と疑問に思ったファンもいただろう。平成22年初場所、千代大海は関脇で迎え、大関特例復帰を懸けていた。ところが、初日からいいところがなく連敗。3日目には長年大関をともに務めてきた盟友・魁皇(元大関、現・浅香山親方)に背中から叩きつけられるという無様な負け方をした。皮肉にも、魁皇が対戦相手の師匠の幕内通算白星807勝を上回る1勝を挙げた取組となった。力士生命の終わりを悟った千代大海は、その日の夜に引退を決意し、翌日、引退会見を開いた。年寄「佐ノ山」を襲名し、九重部屋で後進の指導に当たることとなった。


千代大海が引退し、平成11年春場所で初土俵を踏んだ千代白鵬(元前頭6)も素行不良が問題視され、部屋の勢いが衰えていった(実際、千代白鵬は平成20年にロシア人関取が大麻所持法違反で芋づる式に解雇されたとき、師匠から「お前は検尿を受けなくていい」と言われたことから、疑いをかけられていた)。九重部屋の関取不在という事態を起こさないように十両で奮闘していた千代白鵬だが、平成22年に野球賭博関与が発覚し、出場停止処分を受け、幕下に陥落。すぐに十両復帰を果たしたが、平成23年には八百長関与が発覚したことで時の放駒理事長(元大関・魁傑)から命じられ、引退届を提出した。これにより、昭和42年の創設時から関取を絶やさなかった上に、昭和末期には千代の富士・北勝海の2横綱が君臨し、平成に入ってからは大関・千代大海を擁していた九重部屋から、ついに関取が消滅した。


ただ、次代を担う若手は確実に育っていた。千代白鵬が引退してからすぐに、三重県の寺院の息子である千代の国(現・前頭)が21歳で新十両に昇進すると、その後も千代大龍(現・十両、最高位小結)や千代鳳(現・前頭、最高位小結)などの若い関取が相乗効果で関取の座を手中にし、部屋を再び活性化させた。九重は、多いときで6人いた関取衆をはじめとする力士たちと交換日記を行う形で指導しているという。毎日の稽古の内容などを詳細に記述し、翌日には九重の赤ペンが入って返却されるという、学校のクラブ活動にも似たような指導法を取り入れた。


平成25年には膵臓癌の手術を受けたが、平成27年に還暦を迎え、赤い綱を締めて「還暦土俵入り」を両国国技館で行った。しかし、この直後に癌が身体をむしばみ、平成28年7月31日、膵臓癌のため、都内の病院で息を引き取った。61歳だった。関係者によると、やせ細っており、意識もなかったという。平成25年に大鵬、27年には北の湖がこの世を去ったばかりだが、千代の富士も先輩大横綱のもとに、そして27年前に突如として短い生涯を終えた三女のもとに召されてしまった。


2010年代前半に次々と十両に昇進した若い関取衆が幕内・十両の土俵で活躍し、モデルとして芸能活動をする次女の梢さんもキャリアが軌道に乗ってきて、これからという時の早すぎる死である。また、奇しくも梢さんは29歳の誕生日を迎えたばかりで、父親が逝去した日にはスタッフから誕生日を祝ってもらっていたところだったという。イベントではウェディングドレスを着たことがあるが、人生の伴侶が隣にいるという状態での花嫁姿は父に見せることができず、無念だろう(やはり大物の松田優作の子息である松田翔太との噂があったが、真偽のほどは?)。



8月になり、力士たちは暑くて熱い夏を迎える。1カ月間の夏巡業が待ち受けている。九重部屋の力士たちはどのような心境で巡業を、そして秋場所を迎えるのか。まだ正式な発表はないが、九重部屋は、唯一の部屋付き親方である元大関・千代大海の佐ノ山親方が継ぐだろう。


私は平成生まれのため、千代の富士の現役時代の記憶はないが、再現VTRで見ただけでも「最強」の印象を受けた。強さだけでなく、華もある横綱だった。合掌。