いくら私が・・・
『無礼千万、僭越至極、不作法極まりない!』
・・・と烈火の如く怒っても・・・
それは日本の地にあってこそ通用する事であり、もしも、ある異国にあれば、それは無礼でも僭越でもなく、不作法でもなくなる・・・のかも知れない。
過去に十数ヵ国を廻った経験からすれば、これは充分にあり得る話だ。
先日ふと、そんな事を思う様な出来事があって・・・
『私の目の前に立つこの人は、実は日本人ではなく、外国人・・・即ち、異国の文化教養とモラルで育った人間で、日本の文化教養とモラルは通用しない人なのかも知れない。』
・・・と・・・思い・・・
『ならば、私の理屈や道理が通用しないのも頷けるし、それは仕方がない事なのだ。』
・・・と思ったのだった。
『姿形は日本人に見えて、日本語も通じるが、しかし、思考回路とモラルの同意には、大きな差・・・いや・・・壁があるのだ。』
そう考えると合点がいく事が、この人との間の過去のやり取りに幾つもあって・・・
『あぁ!なるほど、そうなのか!』
・・・とピンッと来た様な出来事であった。
私が『理解出来ない、何故そんな考えになり、何故そんな言動が出来るのだ!?』と・・・全く解せない『何か』が、突如・・・
理屈ではない所で理解出来た。
理解出来た・・・と言う表現は正しくない・・・
『府に落ちた!』のだった。
文化が違い、思考が違い、罪悪感の在り処が違えるならば、理解も同意も難しくなる訳だ。
私は、異国の文化教養やモラルを否定するつもりは更々ない。
只・・・
『マイナス要素』しか産み出さないコミュニケーションは避けたい。
・・・と、そう思うだけである。
文化教養、教育、マナー、そしてモラル。
何処に、どんな風に、何に『重き』を置くかは、お国柄で変わるもの。
この人が、私を理解出来ないのも、私が、この人を理解出来ないのも・・・
仕方がない事なのかも知れない・・・
そう思える様な出来事であった。
2011年9/30の記事『九月も終わり』