ジョディーが煎れてくれたコーヒーから立ち上る湯気…。
重苦しい沈黙…。
私達三人はテーブルに着き、顔を突き合わせたまま、黙って居た。
さながら…
手術室の扉の前で、ひたすら近親者の手術の成功を祈りながら、寡黙に過ごす家族の図の様である。
どれくらいの時間そうしていたろうか?
この重苦しい沈黙を破ったのは、ジョディーだった。
「私達ね…ニューヨークを離れてフロリダに移ろうと思ってるの。」
「え?フロリダ?」
「ええ。何も準備してないから、直ぐにって訳じゃないんだけど…。」
「フロリダに行ってどうするの?」
「それもこれから話して考えるつもりよ。」
ジョディーがスコットと目を合わせる。
「ニューヨークよりは暮らし易いって言うしね。」
スコットが言った。
「そう…。」
思いがけない展開に、私の反応は今一つ鈍い。
『ジョディーもスコットもニューヨークから居なくなる…。』
まだ形を成さない漠然とした計画を聞かされ、私は再び黙り込んだ。
「貴方は日本に帰って、新しい環境と状況の中で、また前進する…。」
ジョディーが私を見つめた。
「私達も前へ進むわ。」
私はジョディーを見つめ返した。
ジョディーもスコットもニューヨークから居なくなる…?
そんな事…
夢にも思わなかった…。
「カズシが迎えに来るんでしょ?」
私は壁かけの時計を見た。
「あ!シャワー浴びなきゃ!」
私は、釈然としない…形容し難い…何かモヤモヤとした思いを抱えて、バスルームに向かった。
『もし、またニューヨークに帰って来ても、その時にはジョディーもスコットも居ないかも知れないんだ…。』
この感情は何だろう?
この…ポカンとした…いきなり出来た穴…得体の知れない黒い穴を見る様な…
どう反応したら良いのか解らない感情であった。
まじろぎもせずに突っ立ったまま、降り注ぐ湯を浴びながら…
私はふと思う。
『ジョディーは…ジョディーも今、こんな思いでいるんだろうか…?』
シャワーを浴び終え、私は自室に入った。
綺麗に片したベッド。
このベッドに寝る事は…
もう無い。
そのベッドの脇には大きなトランクが二つ。
何日もかけて厳選した、私ニューヨークで得た『欠片達』が詰まっている。
並べてあるのは、機内持ち込み用の大きなバッグ。
開け放たれたクローゼットの扉の奥に、空っぽの棚が見える。
もう此処に、私の衣類が並ぶ事は無い…。
『この部屋を与えて貰った時は嬉しかったな…。』
それまで自分の部屋など持った事など無かった私の、人生初の『自分の部屋』である。
私は着替えを済ます。
人は知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。
ニューヨークに来なければ知らなかった事を、私は知り、ニューヨークに来なければ会えなかった人達に、私は会った。
そして今…
ニューヨークに来なければあり得無かった別れを、私は体験、痛感している。
ジョディーと出逢わなければ、こんな思いをせずに済んだ?
ジョディーと出逢ったからこそ、体験出来る痛み?
これは…
この強烈な寂しさと胸の痛みは、ニューヨークで私が得た多くの事、貴重な多くの経験に対する代償…?
…ならば…
支払わねばなるまい…。
『胸って…ホントに痛くなるんだな…』
私は、不必要にノロノロと自室から重いトランクを運び出した。
スコットが手を貸してくれる。
アパートのエントランスのチャイムが鳴った。
ジョディーがインターフォンを通じ、カズシの到着を確認する。
そして、気重な様子で玄関の鍵を開けた。
私は黙って、その様子を見ていた。
玄関のドアが開き、カズシが表れる。
「ハイ、ジョディー。ハイ、スコット。」
「ハイ、カズシ。」
まるで感情の動かない、無機質な挨拶が交わされる…。
「カズミ、支度出来た?」
カズシが並べてあるトランクに目をやった。
「うん…。」
カズシが私の目を覗き込む様に、ジッと見た。
私はカズシの目の奥の言葉を読んだ。
『ジョディーとの挨拶は済ませたのかい?』
私達は無言で言葉を交わした。
『まだだよ…カズシ…』
『じゃあ、ちゃんとして…』
『だって…だって…』
私の視界が曇り出し、カズシの顔が一気に歪む…
『カズミ。』
『だって…なんて言ったらいいか…分からないんだ…』
もう…
私の視界の中のカズシの顔は形を成していない…
私の肩が…
小刻みに震え出す。
私とカズシの無言の会話を見ていたジョディーは、私達に背中を向けた…。
「カズミ!」
カズシの声。
「ジョディー。」
スコットの声。
私はジョディーを見た…
その途端、私の目からボロボロと涙が溢れた…。
視界が少しハッキリする…。
ジョディーはスコットに肩を抱かれ、私の方に身体を向けた…。
しかし、下俯いたジョディーの顔が見えない…
『ジョディー』と、呼ぼうと…声を掛けようとした…
しかし…
涙が喉をキツく締め上げる。
見兼ねたカズシが私の代わりにジョディーを呼んだ。
「ジョディー。」
ジョディーはゆっくりと顔をあげる…。
私とジョディーは、お互いの顔を見た。
酷い顔。
涙と悲痛な思いに、ジョディーの顔は痙攣している…。
ジョディーの綺麗な顔が…
こんなに歪むなんて…
私はおずおずと、ジョディーに両手を差し出す…
喉が痛い!
顎が痛い!
首が痛い!
あばら骨が痛い!
身体中が…
ジョディーとの別れを拒んでいる…
ジョディーもゆっくりと両手を私の方に伸ばした。
『何か…何か…言わなきゃ…言わなきゃ!』
私達の手が触れ合う…
後は…
ただ…
お互い…
言葉もなく…
ひたすら…
ただ、ひたすら…
嗚咽の抱擁。
言葉など無力だ。
この思いの、たったほんの一部すら言い表す事が出来ない。
この世界の、幾多数多存在する言語をどんなに駆使しようと、こんなにチッポケな私の、こんなにチッポケな思いすら表現する事は出来ない。
この二年…
私とジョディーは…
こんなにも深い思いを積み重ねて来たのだ。
それを言い表し、更に、今の私達のこの感情を言い当てる言葉など、この世に存在する訳がない。
カズシは…
残酷な役回りを買って出た。
「カズミ…時間だよ…外でみんな待ってる。」
覚悟していた時が来た。
しかし…
私がしていた覚悟など、如何に脆いものであったか…
どうにもならない事に対する往生際の悪さ…
この空間、この時間から、ジョディーから立ち去り難く…
ジョディーの身体を離す時、まるで皮と身が引き剥がされる様な痛みを感じた。
カズシとスコットがトランクを表に運び出す。
二人の姿が玄関の外に消えると…
「…さ…さぁ…い…行ってらっしゃい…」
ジョディーが涙に声を詰まらせながら言った。
「あ…貴方の…行くべき所へ…」
私は…
頬を伝う涙を手で拭う…
その私の様子に少しだけ冷静さを取り戻したジョディーが言った。
「私は…ここから…貴方を送り出す…いつもの様に…だから…さぁ…行きなさい…」
その言葉に私は、ゆっくりとジョディーに背中を向ける。
そして玄関のドア・ノブに手をかけた。
「Have a good day, Jody…」
「…You too, KAZUMI-BOY…」
私は…
次に自分が進むべき世界へと…
その扉を開けた…。