私が師匠のダニエルと出会った頃、私は英語が『からっきし』であった。
せっかくクラスで何かアドバイスや注意を受けても、ちんぷんかんぷんだった。
私はダニエルがどんな注意をしてくれたのか?を知りたくて堪らなかったし、言葉が解らない分、目で見る事だけに集中するしかなかった。
私の理解が遅い事に、若きダニエルは随分とイラつき、腹を立てた。
言葉が解らないと言う壁は、当時の私にとっては拷問の様な物だった。
『ダニエルが言う通りに反応したい!』
『ダニエルの言葉を理解したい!』
『ダニエルの様に踊りたい!』
『ダニエルに褒めて貰いたい!』
『上手くなりたい!』
ひたすら、そう思った。
少しでも理解出来たアドバイスや注意は、絶対に忘れないし、克服したい!と、必死だったのである。
私はいまだに、当時の私がどんな注意を受けて来たかを、逐一覚えている。
そして、他の生徒が受けるアドバイスにも必死に目を凝らし、参考にした。
直接アドバイスを貰ったその生徒と、同じミスはしたくなかった。
さて…
私は自分のクラスで、母国語を喋っている…と思っているのだが、私の生徒達の中には、私の言葉が通じない連中も多い様である。
毎度毎度、私が注意する事に対し、お愛想よろしく、あたかも理解したか?の様な返答はするが、次回のクラスに於いて『全く理解していなかった事』を平然と露呈するから、此方こそ理解に苦しむ訳である…。
『分かってないなら、分かったって言わなきゃいいじゃん!』
と思うのは、私がおかしいのだろうか(笑)?
自分以外の生徒が受ける注意は元より、自分個人が受けた注意すら記憶に無いらしく、同じ失敗を堂々と繰り返すのだから不思議だ。
私の言語が間違っているか?連中に『記憶する』と言う能力が無いか?の、どちらかであろう…。
あの当時の私にとって、個人的に受けたアドバイスや注意は『宝物』だった。
恐らく…
私の言葉…アドバイスや注意は、ある生徒達にとっては『ただのゴミ』に等しい物…或いは、何度でもリピートされる『録音された言葉』くらいの価値しかないらしい。
スポット(回り物のテクニックに必要な、首と顔の返し)がなかなかつかない生徒に、言った事がある。
『オマエは、クロス ザ フロア(スタジオをステップやテクニックで横断する練習)をやらんでいい!鏡の前に立ってコレをやってなさい。』
と。
私は、スポットをつける為の、極々初歩的な練習方法を提示したのである。
もし、その生徒が私の言う事に素直に反応し、私が与えた指示に従ってさえいれば、今頃は同じ注意を繰り返す事も無かった筈だが、その生徒は『自分だけカッコ悪い』とでも思ったのか…次のクラスでは、もう止めてしまった。
クラス内で実行するのが恥ずかしければ、影で練習を繰り返すのが我々の常識であるが、その生徒は、それもしなかった…と思われる。
何故なら…
その生徒はいまだに、同じ注意を受けているからである(苦笑)。
結局、その生徒にとってみれば、私が与えた注意は『その程度』の事であり、心底『回り物のテクニック』を身に付けたい!とは願っていない…と言う事なのであろう。
あなたは何歳の頃まで、親に『歯を磨いてから寝なさいよ!』と言われていたか?覚えておいでだろうか?
私は毎日毎日…
もう何年も…
自分の生徒達に言い続けている…
『寝る前には、歯を磨きなさい!』
と…。