樋口季一郎の生涯「二回目」 | 隠居の暇つぶし

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ユダヤ人難民救出・・オトポール事件。

三年程ワルシャワで過ごし、国内外勤務を繰り返した
樋口。

昭和十二年五月、ドイツの視察旅行に行き、ドイツの
ユダヤ人迫害を目にしている。

同年八月、関東軍一司令部付のハルビン特務機関長に
就任。

一ケ月前の七月には、盧溝橋「ろこうきょう」事件が
起こり、日中戦争へ。

先のドイツとの状況と合わせて、日本の将来に不安を
感じていた。

政府は中国に対し、軍事行動を抑える不拡大方針を唱
えていたが、上司で後に首相になる東條英機参謀長は
拡大方針だった。

樋口は、違和感を覚えながら、業務に就きました。

しばらくして、樋口は極東ユダヤ人協会会長で内科医
のカウフマン博士から、ある要請を受けました。

ヨーロッパで、ユダヤ人がドイツの迫害を受けている
実情を世界に知らせるための大会を開きたい。

それを許可して欲しいとのこと。

樋口は了承し、来賓として参加することを決意した。

昭和十二年十二月、ハルビンで第一回極東ユダヤ人大
会の開催された。

樋口は軍服ではなく平服で登場した。

これは軍人ではなく、一人の日本人という意識だった
のでしょうか。

そして、ドイツを批判し、ユダヤ人を擁護する講演を
行って、ドイツ外務省の怒りを買います。

昭和十三年三月八日、樋口は、満州国との国境にある
ソ連領オトポール駅に、ユダヤ人難民が現れたとの報
告を受けました。

人道的には救助したい、しかし軍人としての立場を考
えると、行動は慎重にならざるを得ない。

結局、自らの失脚も覚悟して、救出を決意した。

カウフマン博士に食料や衣服の手配を要請し、部下に
素早く指示を与えた。

南満州鉄道には、救出のための特別列車を出すことを
取りつけた。

こうして移動ルートを確保した。

このルートは、ヒグチルートと呼ばれている。

そして、三月十二日、ユダヤ人難民一行がハルビン駅
に到着し、滞在ビザが出された。

それは、杉原千畝の「命のビザ」発行の二年前のこと
だった。



 

画像説明
「ヒグチルート、ユダヤ人難民はオトポールから満州里
まで移動し、南満州鉄道に乗車。

このルートは、昭和十六年頃まで使われ、一説には、二
万人以上のユダヤ人難民を救ったとも言われている」


 

ユダヤ人難民救出後、樋口も覚悟していたように、ドイ

ツから日本政府へ抗議書が届けられ、関東軍司令部から

出頭命令が来ました。

そこで対面した東條に向かい、こう言いました。

「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで、弱い者いじめ

することを正しいと思われますか。」

東條は、その主張に耳を傾け、樋口に懲罰を科すことは

せず、事件は沈静化した。

樋口は戦後、東條のことを次のように語りました。

「東條さんは、筋さえ通れば、いたって話のわかる人で

ある。」

次回につづく