樋口季一郎の生涯「三回目」 | 隠居の暇つぶし

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アッツ島玉砕


太平洋戦争勃発翌年の昭和十七年八月、樋口は北部軍
司令官として札幌市に赴任した。

この頃には陸軍中将に昇進していた。

この二か月前の六月、日本軍はアリューシャン列島の
西端にある、アッツ島とキスカ島を占拠した。

目的は、米ソの連絡遮断、米軍の北方からの侵略阻止
日ソ開戦時にカムチャツカ半島攻略の基地とするため
だった。

アメリカとの戦局が激しくなる中、樋口はアッツ島に
米軍が攻めてくると予測して、戦闘準備を進めていま
した。

しかし、昭和十八年五月十二日、予想の時期より早く
米軍が上陸した。

日本軍は苦戦の上、アッツ島は玉砕した。

二千人以上の犠牲が出た。

樋口は大本営に部隊の増援を依頼したが、当時南方と
の戦いに力を入れており、アッツ島への増援は受け入
れられなかった。



画像説明
愛用の業務用机とイス「樋口季一郎記念館」


キスカ島撤退

増援の依頼を断られたことは、樋口には、大変なショ
ックでした。

しかし、それを受け入れる代わりに、キスカ島の即時
撤退を申し出て、承認された。

入念に計画を練り、八月一日無事撤退し、五千人以上
の兵士を救いました。

樋口は撤退の際、兵器や弾薬の放棄を認めたことが速
やかな行動に繋がりました。

軍人にとって武器は、生命同様。

それを手放すことを認める樋口は、人命は武器より尊
いと考えていたのでしょう。

 




占守島の戦い

昭和二十年、戦局は日本にとって益々厳しい状況にな
り、八月十五日終戦。

八月十六日、大本営は各方面軍に対し、止むを得ない
自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為を停止
する命令を下した。

さらに、自衛のための戦闘行動も、八月十八日午後四
時までと期限付きだった。

樋口は指揮官として、部下にこの命令を伝えた。

しかし、ソ連が侵攻を止めるとは到底思えなかったの
です。

千島列島の北東端にある占守(しゅむしゅ)島。

ここにいた兵士の多くは、終戦の知らせを聞き、安堵
していました。

しかし、八月十八日未明、ソ連軍が占守島へ上陸。

樋口の元へも連絡が届き、現地に次のように連絡しま
した。

「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ。」

自衛のための戦闘として、現場の兵士には戦うことを
命じました。

日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。

期限の午後四時を迎え、日本軍はピタリと戦闘を停止
しました。

日本人の律義さを感じます。

結局二十一日に停戦が成立し、二十三日から武装解除
が始まりました。

この戦いで、日本軍はソ連の侵攻を抑え、北海道、そ
して、日本を守りました。

非常に意味のある戦いゆえに、多くの人に知られてほ
しいと思う。

ただ、武装解除した後、多くの日本兵が、シベリアに
抑留されました。

多くの犠牲の上に、今の日本が成り立っていることを
改めて感じます。

次回につづく