樋口季一郎の生涯「一回目」 | 隠居の暇つぶし

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令和二年九月、北海道石狩市に一人の旧陸軍中将を
称える記念館が開館した。

彼の名前は、樋口季一郎「ひぐちきいちろう」だ。

昭和十三年、多数のユダヤ人難民を救出した。

ユダヤ人難民救出と言えば、命のビザを発行した外
交官杉原千畝が有名だが、樋口は、その二年前に救
出を行っている。

また、昭和二十年、終戦後に関わらず、千島列島の
占守「しゅむしゅ」島に侵攻したソ連軍と戦い、北
海道を守った。

今回は、そんな彼の生涯を紹介する。


    
 

明治二十一年、兵庫県淡路島の阿万村に生まれた樋
口季一郎「旧姓奥濱」。

陸軍士官学校を経て、幹部養成機関である陸軍大学
校を卒業。

将来を嘱望され陸軍将校としての道を歩み始める。

大正八年、情報機関である特務機関員として、ロシ
アのウラジオストクに赴任したのを皮切りに、ハバ
ロフスクや満州国のハルビン、ポーランドのワルシ
ャワへ。

陸軍将校は外交官のように、見聞や人脈を広める目
的で、世界各地を赴任するのが常でした。

ウラジオストクでは、ユダヤ人の私邸に住んだこと
もあった。

白人の有色人種に対する差別が激しかった頃だ。

日本人に下宿を貸してくれたのは、ほとんどがユダ
ヤ人でした。

樋口は、「日本人は、ユダヤ人に、非常に世話にな

った」と、後年語っている。

樋口の任務は、軍事外交上の情報を収集すること。

そのために、ワルシャワでは社交界に顔を出すこと
も業務の一つでした。

社交界といえば、ダンスは必修科目だ。

苦手な日本人が多い中、樋口はワルシャワに赴任し
て早々、ダンスのレッスンを開始した。

ハバロフスク時代には、ピアノを習ったこともあり
楽しみながら修得していきました。

ちなみに、出身地の淡路島は、淡路人形浄瑠璃が有
名である。

幼少期は人形遣いに憧れ元々芸術への関心は強かっ
たようだ。

子孫には、芸術方面で身を立てた方が多いのも、樋
口の影響かもしれない。

身長百七十センチ以上と、当時の日本人としては長
身の樋口は、ワルツを踊ってもさまになった。

ときには、侍の服装をして会場を沸かすので、社交
界の人気者に・・・

こうして、情報収集と人脈作りに励みます。

西洋文明を柔軟に受け入れ、視野を広げていきまし
た。

次回につづく