萱野稔人氏による朝日新聞擁護の詭弁の検証 | 西陣に住んでます

萱野稔人氏による朝日新聞擁護の詭弁の検証

萱野稔人氏



[偽プロメテウスの罠(1) 嘘も方便]
[偽プロメテウスの罠(2) 稚拙なリスク管理]
[偽プロメテウスの罠(3) 傲慢な勘違い]
[偽プロメテウスの罠(4) ダメージコントロール]


朝日新聞吉田調書に関する誤報(虚報)は、まさに新聞週刊誌を中心とするマスメディアの自浄作用によりあぶりだされたものです。朝日新聞ムラ(朝日新聞という存在に群がる一般国民不在の排他的利益集団)を中心とする一部に、マスメディアの朝日新聞の追及はマスメディア間の抗争であり、「マスメディアの危機」であるかのような言論がありますが、それは「原因と結果(Cause and Effect)」のメカニズムを曲解したまったくの誤謬です。菅官房長官が見解を示したように、産経新聞読売新聞の言論により「その一部のみが断片的に取り上げられた記事が複数の新聞に掲載され、独り歩きとのご本人の懸念がすでに顕在化しており、このまま非公開となることで、かえって本人の意志に反する結果になると考えられた」状態が発生し、政府が吉田調書を公開したわけです。このことにより国民は初めて朝日新聞の誤報によって捻じ曲げられていたファクトを知りうることができ、さらには吉田調書を含む政府事故調の聴取結果書の内容をも知りえたわけです。仮にこのことがマスメディア間の抗争であったとしても国民にとっては歓迎すべきことであり、マスメディアの危機どころか、マスメディアの役割が着実に機能したものと評価できます。国民視点に立った場合、マスメディアが互いにエクスプリシットに徹底的に議論しあうことは理想であり、この議論を通して得られる内容は国民にとって有益な情報であると考えられます。むしろマスメディアが一方向の報道しかしない事態の方がマスメディアの危機であり、何かしらの権力(権力=政府とは限らないことに注意)による大本営発表であると言えます。

さて、今回「情報の安全」を揺るがした朝日新聞の虚報のメカニズムについては、マスメディア及び国民が徹底的に追及しなければならない事案であると考えます。「食の安全」なくして私たちが食生活を安心して営むことができないように、「情報の安全」なくして私たちは文化的生活を安心して営むことができません。食の安全が担保されない場合に私たちの体が蝕まれるように、情報の安全が担保されない場合には私たちの心が蝕まれることになります。この点で、朝日新聞の中枢が直接的・間接的に関わっている吉田調書の虚報は極めて罪が重いと言えます。このような「情報の危機」を再び発生させないために、朝日新聞の虚報のメカニズムを徹底的に明らかにすることが重要なわけです。

ところが、そのような重要な論点をうやむやにして、朝日新聞を理不尽に擁護する言論が一部存在し、まるで朝日新聞の虚報のメカニズムを追及することがネガティヴで非生産的なことであるかのような印象を植え付けています。このような言論は確実に間違っています。マスメディアの重要な責務に権力の監視がありますが、これは権力の過ちを適正に批判することによって、権力が過ちを繰り返さないようにするわけです。このことによって公正でポジティヴな社会が形成され、過ちに起因した非生産性が排除されることで真の意味での生産性が向上するわけです。この意味からいえば、第四の権力であるマスメディアを監視することは社会の務めであり、ポジティヴで生産的なことであると言えます。そもそも、「食の安全」を犯した企業を言論を介して次々と退場させているマスメディアが、会社ぐるみで「情報の安全」を犯していることは国民にとっては許すことができない不祥事です。そして、このような明らかな不祥事を矮小化する言論は、公共の利益を著しく損なう極めて危険な存在であると言えます。

ここで問題なのは、マスメディアは「報道の自由」を逆手に取るため、食品・建設・薬品・金融業界などの業種とは異なり、国家権力が制裁を加えることができないことであり、マスメディアは、虚報をしたところで深刻な事態に陥ることなく、安全に営業を続けてきました。したがって、このようなマスメディアに二度と同じような悪質な行為を繰り返させないためには、国家権力以外のステイクホルダーが毅然として制裁を加えることが必要となります。具体的な方法としては、まず国民は毅然として問題のあるマスメディアを適正に批判し、その出版物の購読を買い控えることが重要です。また他のマスメディアは虚報の経緯を徹底的に取材・分析し、国民にその悪徳を公表する必要があります。さらに、マスメディアの広告スポンサー企業は毅然として広告の出稿を停止し、経済的な制裁を加えるべきです。このように社会を構成するステイクホルダーが連携して行動してこそ、無自覚な巨悪を変化させることができるわけです。

そんな中、絶対に避けるべきはマスメディア同士の助け合い報道です。このようなリスク分散報道くらい国民を絶望させるものはありません。今回の朝日新聞の誤報に関連しても、朝日新聞を理不尽に擁護している言論が複数あるのが現状です。この記事ではその事例を一つ挙げ、しっかりと分析してみたいと思います。


目目目目目


2014年9月14日TBSテレビ「関口宏のサンデーモーニング」において、コメンテイターの萱野稔人氏は以下のように発言しています。

「公開された吉田調書の内容をみると、やっぱり命令違反で撤退という言葉はニュアンスとしては違うんじゃないかなという違和感を感じるんですよね。その結果、やっぱり決死の覚悟で事故の処理にあたっている人々を貶めてしまったということは確かにあったかもしれない。その点に関しては、記者の思い込みだとか問題意識に沿った部分しか見なかったんじゃないかという点は、今総括されるべきだと思います。ただ、朝日新聞が今回の吉田調書を特報しなければそもそも吉田調書の内容が本当に公開されたのか?というと、それも考えるべきだと思うんですよね。今回の特報があって、いろんな議論が生じたからこそ吉田調書が公開された。その内容をみると、やはり我々にとって原発の事故にどう対応していくのかということで教訓が多いし、公共のレベルで共有されるべき内容がたくさんあるわけですよね。ですので、公開されたということは一定の成果じゃないかと私は考えるべきだと思いますし、今後はもちろん報道のことに関しては総括していくべきだと思いますけれども、一方でそこにとどまらずに吉田調書を我々どうやって活かしていくのか、今回の朝日の問題だけに押し込めるわけではなく、もっと吉田調書をどう活かしていくかということを考えるべきだと思いますね。」

実際の映像は↓コチラです。
[萱野稔人氏による朝日新聞擁護の詭弁 朝日新聞ムラの論理]


時間にしてわずか1分半の萱野氏のコメントの中には朝日新聞を理不尽に擁護する誤謬(ごびゅう:論理的誤り)が数多く含まれています。以下、その一つ一つの誤謬を示していきます。

「公開された吉田調書の内容をみると、やっぱり命令違反で撤退という言葉はニュアンスとしては違うんじゃないかなという違和感を感じるんですよね。その結果、やっぱり決死の覚悟で事故の処理にあたっている人々を貶めてしまったということは確かにあったかもしれない。」

朝日新聞が誤報を認めている中、「違うんじゃないかなと違和感を感じる」「確かにあったかもしれない」などの確定しない推量表現をするのはどうかと思いますが、ここまでの言説については、ノーマルな個人の感想であると言え、論評には値しないと言えます。

「その点に関しては、記者の思い込みだとか問題意識に沿った部分しか見なかったんじゃないかという点は、今総括されるべきだと思います。ただ・・・」

ここで萱野氏は、朝日新聞が多用する「確かに~である。ただ・・・」という「Yes/But論法」のイディオムを用いています。Yes/But論法とは、正論である一般論をまずアリバイ目的で短く述べてから、その一般論とは真逆の自論を延々と述べる「転移(transfer)」のテクニックであり、扇動家(propagandist)が客観性を装いながらエキセントリックな自論に導く際によく用いられます。

「ただ、朝日新聞が今回の吉田調書を特報しなければそもそも吉田調書の内容が本当に公開されたのか?というと、それも考えるべきだと思うんですよね。」

この言葉によって、萱野氏は「朝日新聞の誤報についてどう考えるのか?」という質問を「朝日新聞が今回の吉田調書を特報しなければそもそも吉田調書の内容が本当に公開されたのか?」という質問にさりげなくすり替えています。これは「質問のすり替え(rephrasing the question)」という典型的な「言い逃れ(evasion)」のテクニックです。そして、反語による示唆で「朝日新聞が吉田調書を特報しなければ吉田調書は公開されなかった」という必要条件のステイトメントをインプリシットに設定しています。

「今回の特報があって、いろんな議論が生じたからこそ吉田調書が公開された。」

萱野氏は、自らが勝手に設定した必要条件のステイトメントを「朝日新聞が特報したので吉田調書が公開された」という十分条件のステイトメントにさらに言い換えて断定しています。ただ、この論理は明らかな「前件否定の誤謬(fallacy of denying the accident)」であり、「寄与・十分・必要条件の混同(confusing contributory,sufficient, and necessary causes)」にあたります。必要条件が示された言説から論理的に導くことができるのは「朝日新聞が吉田調書を特報したら、吉田調書が公開されることもある」という寄与条件のみです。つまり、「朝日新聞が特報したからといって必ずしも吉田調書が公開されるわけではない」わけです。

「その内容をみると、やはり我々にとって原発の事故にどう対応していくのかということで教訓が多いし、公共のレベルで共有されるべき内容がたくさんあるわけですよね。ですので、公開されたということは一定の成果じゃないかと私は考えるべきだと思いますし、」

吉田調書が公開された確かな理由は、内閣官房長官談話にあるように「その一部のみが断片的に取り上げられた記事が複数の新聞に掲載され、独り歩きとのご本人の懸念がすでに顕在化しており、このまま非公開となることで、かえって本人の意志に反する結果になると考えられた」からです。つまり、調書公開のトリガーになった近因(immediate cause)は産経新聞と読売新聞の報道にあり、朝日新聞の報道はその前段の環境づくりとなった遠因(remote xause)にすぎません。萱野氏の論理は「遠因と近因の混同(confusing remote cause with immediate cause)」という誤謬です。物事の原因と結果を考える上では、原因をどこまでさかのぼって考えるかということが重要です。例えば、「福島原発事故が起きなければ、吉田調書は公開されなかった」ことは誰もが完全に認めることができる明快なファクトです。このファクトに対して萱野氏の論理を適用すれば、吉田調書が公開された理由を「福島原発事故が起きたから」に求めることもできます。すると「福島原発事故があったからこそ吉田調書が公開された。なので福島原発事故には一定の成果があった。」とする結論が得られます。この結論が甚だおかしいことは誰にでもわかることかと思います。

「今後はもちろん報道のことに関しては総括していくべきだと思いますけれども、一方でそこにとどまらずに吉田調書を我々どうやって活かしていくのか、今回の朝日の問題だけに押し込めるわけではなく、もっと吉田調書をどう活かしていくかということを考えるべきだと思いますね。」

当初「朝日新聞の誤報」についてコメントを求められた萱野氏の結論は、「朝日の問題だけに押し込めるわけではなく、もっと吉田調書をどう活かしていくかということを考えるべき」という論点をまったく外れたものになりました。そしてこの結論はポリアンナ効果に訴える虚偽(appeal to Pollyanna)を含んでいます。ポリアンナ効果とは、人間の心理としてネガティヴな内容よりもポジティヴな内容の方を記憶する傾向があるというものです。この効果はネガティヴなファクトを矮小化するときによく用いられます。つまり、「吉田調書をどう活かしていくか」というポジティヴな内容で「朝日新聞の誤報」というネガティヴな内容を矮小化していると考えることもできます。このテクニックは、朝日新聞が自分の論調に合致しないような事由が存在した場合に必ずと言ってもよいほど使ってきたもので、その都度多くのポジティヴで善良な国民がこの効果に操られてきたと言えます。実際この事例以外の朝日新聞擁護論のほとんどが、Yes/But論法とポリアンナ効果に訴える虚偽で構成されています。この点についてはまた別記事で書きたいと思います。

いずれにしても萱野氏の言説は、朝日新聞ムラにとってはありがたい「不公正な言葉」であると考えられますが、朝日新聞による報道被害を受けてきた国民にとっては公正な社会を揺るがす許されざる「不公正な言葉」と言えます。そしてこのことは、変化するチャンスに面している朝日新聞(朝日新聞ムラではない)にとっても不利益をもたらすものと考えます。


ところで、萱野氏は最近サンデー毎日の記事「朝日バッシング5大問題」なる誤謬の塊(笑)のような特集にも「国益を損ねたのは誰なのか?」なる記事を寄稿しています。その一部は次のようなものです。

なのに歴史修正主義者はこうした現実を踏まえず「強制連行はなかった=慰安婦問題もなかった」かのように主張しています。また「他国にもあった」とどれだけ言おうと日本に味方する国はありません。疑問は理解できるが、だからといって免罪されるわけではない。彼らは朝日に対して「国の名誉を傷つけた」と強く批判していますが、待ってほしい。この間、諸外国の日本を見る目を厳しくし、「国益」を損ねたのは、こうした考え方をする人たちでもある。朝日の誤報修正をもとに、歴史修正主義者が従来の主張を繰り返せば、日本はそれだけ国際社会での信用を失います。

いったい具体的に誰が「慰安婦問題がなかった」と言っているのでしょうか。また具体的に誰が「免罪される」と思っているのでしょうか。朝日新聞批判において、「慰安婦問題がなかった」「免罪される」などと主張している言論は、私が知る限り皆無と言えます。朝日新聞が批判されているのは、虚報を行ったからであって、「慰安婦問題がなかった」「免罪される」と思って朝日新聞を批判している人物はほとんど皆無と言えます。もちろん「慰安婦問題」はありますが、「従軍慰安婦問題」がなかったことは朝日新聞も認めるように確かであり、また、日本が慰安婦問題で免罪されることはありませんが、他国にあった同様の問題で他国が追及されなければならないことも確かです。他国で同様の問題があったにもかかわらず、そのことが追及されない場合にはそれは歴史修正主義に他なりません。
このように萱野氏は実際に言論には存在しない、あるいは極少数の言論にしかない「慰安婦問題がなかった」「免罪される」という言葉が朝日新聞批判の主要な理由であるかのように語り、朝日新聞批判を悪しきものであるかのような言説を唱えています。これは、「ストローマン(Straw man)」という朝日新聞もしばしば用いる詭弁の手法であり、「論敵の言説を歪めて紹介してそれを批判する」というものです。けっしてイデオロギー問題でない朝日新聞誤報問題をイデオロギー問題にすり替えているのはまさに萱野氏です。


メモメモメモメモメモ


以上、萱野氏の言説は、ファクトを歪めて巧みに朝日新聞を擁護するものであり、まさに朝日新聞ムラの論理と完全に一致するものです。そもそも萱野氏自身が朝日新聞ムラの立派な構成員(朝日新聞「ニッポン前へ委員会」委員・朝日新聞書評委員・朝日新聞「未来への発想委員会」委員)であり、朝日新聞ムラのステイクホルダーと言えます。したがって、萱野氏は、所属こそ朝日新聞ではないものの、朝日新聞を客観的に批評する立場にあるとは言えず、その朝日新聞擁護発言について、国民は極めて注意をして聴く必要があるということです。ちなみに上述した言説は、明らかな誤謬をベースに論じているものであり、極めて危険であると言えます。まさに国民はメディアリテラシーを発揮して、このような非論理的な言説をけっして受け入れないことが重要です。このような有害な誤謬が広く国民に認識されることによって、このような誤謬を唱える人物がマスメディアから退場することを心から願う次第です。