天皇の四方拝の歴史を考える | 西陣に住んでます

天皇の四方拝の歴史を考える

四方拝

(宮中三殿)



天皇正月の重要な神事に四方拝があります。


この神事は、天皇が元日寅一刻清涼殿東庭


(1) 天皇の属性である北斗七星

(2) 四方の天神地祇(天の神々及び国の神々)

(3) 近い祖先の陵墓


に拝礼し、国家・国民の安寧五穀豊穣を祈るものです。

この遙拝の流儀は中国道教を基礎とするということですが、

その宗教的なフィロソフィーは後に示すように

日本独自のものであったと私は考えます。


現在では、元日朝5時半

宮中三殿の西側にある神嘉殿南庭にかがりを焚き、

屏風を立てて地面に畳を敷くことで構築したスペースにおいて

御所で潔斎した今上陛下が拝礼されるということです。


また現在、拝礼の対象となっているのは以下の神々ということです[→参考]


伊勢神宮、天神地祇、

神武天皇陵、先帝三代(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)の陵、
武蔵国一宮・氷川神社、山城国一宮・賀茂神社

石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮


さて、このようなスタイルで行われている四方拝ですが、

過去から現在に至る各時代のプロセスを見ていくと、

「四方」という言葉が単なる「全方位」という意味ではなく、

拝礼の位置からみた「東西南北」の各方位に

重要な拝礼対象が存在するのがわかります。


ここで、各時代の四方拝において、

それぞれの天皇がどのような対象に対して拝礼していたのか

詳しく見ていくことで、四方拝について深く考えてみたいと思います。



1飛鳥時代


文献において、最初に登場する四方拝は、

飛鳥時代女帝皇極天皇雨乞いのために

南淵の河上飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社)でとり行ったものです。


日本の古代においてシャーマニズム

基本的に女性シャーマンによって執り行われてきました。


思いつくだけでも


天照大神(アマテラス)、天鈿女命(アメノウズメ)、

木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)、

豊玉姫(トヨタマヒメ)、玉依姫(タマヨリヒメ)といった神話上の女性や

邪馬台国で鬼道によって衆を惑わした卑弥呼

倭迹迹日百襲媛命豊鍬入姫命大田田根子倭姫命神宮皇后

といった古墳時代の女性などなど・・・


そんな中で皇極天皇はこれらの女性にけっして引けをとらずに

シャーマニズムを発揮した女性として知られています。


皇極天皇は、推古天皇に続く女性天皇で、

在位時には中大兄皇子による乙巳の変が発生しました。

その後、孝徳天皇に譲位しますが、天皇が崩御すると

斉明天皇として重祚(再び天皇に即位)しました。


シャーマンとしては、四方拝を行って雨乞いを成功させた他に

祭祀用の酒船石遺跡を建造したり、

盂蘭盆(お盆)を始めたり、仁王般若会を開催したことが知られています。


さて、皇極天皇の四方拝は、目的が雨乞いということで、

現在のようなアニューアルなイヴェントではなく

明らかにオンディマンドであったと考えられます。


ここで注目すべきことは「南淵の河上」の場所です。

この場所にこそ、四方拝の起源を考える上での

重要なヒントが隠されていると私は考えます。


下図は飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社と

当時既に存在していたと考えられる

宗教インフラとの位置関係を示したものです。


四方拝


図からわかるように、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は

東に伊勢神宮、西に伊弉諾神宮、南に熊野本宮大社、北に石上神宮

を望む場所に位置しています。

伊勢神宮と伊弉諾神宮はアマテラスとイザナギという

メインストリームの皇祖神を祀る神社、

石上神宮は、当時、伊勢神宮以外の唯一の神宮であり、

熊野本宮大社の主神は、

日本神話のメインキャストといえるスサノオと同一視されています。

このように、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社は、

天神(天の神々)を祀る当時の大和朝廷の最重要宗教インフラを

東西南北に臨むことができる特別な位置にあります。


また、この位置は、同時に概ね北方向に

地祇(国の神々)の代表といえるオオクニヌシを祀る三輪山

臨む位置にあるため、天神地祇を四方に同時に遙拝できると言えます。


北にシャーマニズムを感じさせる神功皇后陵を臨み、

浄土の方位と考えられていた西方に近い方向に

近い祖先である敏達・用明・推古天皇陵

怨霊説もある聖徳太子墓所を臨む位置とも言えます。


なお、現在の四方拝でも遙拝の対象となっている神武天皇陵

橿原神宮の北側に面していますが、

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社から見るとほぼ北西方向に当たります。


さて、このとき皇極天皇は飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社で

四方拝を行ったとされますが、より詳細に見てみると(下図参照)、

飛鳥の南部エリアは、概ね四方拝を行うのに適しているといえます。


四方拝


これらのインフラのうち、檜隈寺は遥拝を行うのに絶好の陸の上にあります。

高松塚古墳とキトラ古墳には四神を描いた壁画があり、

四方拝という道教のフィロソフィーに強く合致しています。

おそらく、記録に残らないまでも

四方拝と同様の遥拝が行われていたことを感じさせてくれます。



2奈良時代


奈良時代には記紀に四方拝の記載はありませんが、

平城京周辺の宗教インフラのレイアウトを考えると、

飛鳥時代と同様に四方拝が行われていたことを強く感じさせてくれます。


四方拝


平城京の中心から見てみると・・・


北には、皇祖神の彦火火出見尊(ホオリ:山幸彦)を祀る若狭彦神社

天武天皇系の奈良時代の天皇には怨霊となりうる天智天皇の陵墓、

勅命で宇迦之御魂大神を祀った伏見稲荷大社が位置します。

このうち、女帝の元正天皇の勅願によって創建された若狭彦神社は

東大寺のお水取りの水の供給地であり、

平城京の真北に位置するのはけっして偶然ではないと考えます。


東には、平城京のスカイラインを作っている若草山が位置します。

また若草山のふもとに建設された東大寺

四方拝のインフラとしての意味も持っていたものと推察します。


西には、イザナギとイザナミの蛭子命を祀る西宮神社が位置しています。

ちなみに、「西宮」の由来には諸説ありますが、

私は単純に平城京の西にあるためであると考えます。


南には熊野本宮大社が位置していますが、

これは飛鳥から見るよりも真南に近いといえます。

また、地祇としては、オオクニヌシを祀る三輪山が位置し、

近い祖先の陵墓としては、

天武系皇統の始祖である天武・持統天皇陵が位置しています。

これらはやや真南からは角度が生じるものの

概ね南方向であることは確かです。

さらに神武天皇陵が隣接する橿原神宮はほぼ真南に位置しています。


これらに加えて伊勢神宮を別途遥拝すれば、

概ね四方拝としての要件はクリアするものと考えられます。


なお、地図を詳しく見ると・・・

平城京の北には、スサノオを祀る添御県坐神社が位置します。

また真西には西大寺が位置することがわかります。

素直に考えると、この時期には日本の神々に加えて、

仏教のインフラが四方拝の遥拝の対象になっていたことが推測されます。


さらに北西には成務天皇陵が、少し外れて神功皇后陵が位置しています。


四方拝


実は平安時代に成務天皇陵が神宮皇后陵と間違えられていた記録があり、

平城京建設時にも同様に間違えられていた可能性があります。



3平安時代


平安時代になると、四方拝の記事がいくつか出てきます。


私が把握しただけでも、次の書物に記述があります。


内裏儀式、延喜式(卷第卅八、掃部寮)、西宮記、親信卿記、小右記、

北山抄、中右記、江家次第、雲圖抄


このうち、平安時代の儀式について説明した江家次第(江次第抄)には、

四方拝のセクションで


嵯峨天皇弘仁十二年、右大臣藤原冬嗣等奉勅撰


という記述があり、少なくともこの嵯峨天皇の時代に四方拝が行われた

ことがわかります。他にも


日本書紀、皇極天皇元年八月朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方祈雨云々、

元旦四方拝始見寛平二年御記、天地祥瑞志拝拜属星。


とあるように、元旦の四方拝が始まったのは寛平12年で、

これは宇多天皇の時代です。

さらに興味深いのは内裏儀式に記載されている次の文です。


鶏鳴、掃司設御座三所、一所此拜属星之座、座前焼香置花燃燈、一所此
天地之座
、座前置花燃香(以上二座舗短畳、拜天地座別舗褥、一所此拜陵
之座
(舗畳)天皇端笏北向、稱所属之星名字(當年属星名禄存字禄会、此
北斗第三之星也)再拜祝曰、賊冦之中、過渡我身、毒魔之中、過渡我身、
危厄之中、過渡我身、毒氣之中、過渡我身、五兵口舌之中、過渡我身、百
病除癒、所欲従心、急急如律令、次北向再拜天、次西北向再拜地、依次
四方
、次端笏遥向二陵、両段再拜、掃司卸御座、書司徹香花。


天皇は四方拝では3箇所に座が設置されていて、それそれ

天皇の属星天神地祇の神々天皇の陵墓を拝する座ということです。

遥拝の順番は次の通りです。


(1) を向いて天皇の属星である北斗七星を拝する

(2) 再びを向いて天神を拝してから北西を向いて地祇を拝した後で

   四方の神々を拝する。

(3) 2つの陵墓を拝する。


このうち、(1)については理解しやすいのですが、

(2)で北西に向かって地祇を拝するというのが理解に難しいところです。

ちなみにこの北西に地祇を拝するという記述は、

内裏儀式の他にも、親信卿記、江家次第、雲圖抄にも認められるため、

誤りではありません。


このようなコンテクストの中で、平安京清涼殿から見た

各種宗教インフラを示したものが次の図です。


四方拝

まず、各方向を見てみると・・・


東には、大文字山のピークが位置します。


西には、仏教の二大如来である阿弥陀如来釈迦如来を本尊とする

二尊院が位置します。二尊院は嵯峨天皇の建立です。

またほぼ同じ緯度には、嵯峨天皇の子の源融建立の清涼寺が位置します。

ちなみに清涼寺にも阿弥陀堂釈迦堂があります。

これは西方浄土という思想に適った抜群のロケーションといえます。

小倉山のピークも計ったかのようにこの線上にあります。


北には、京都で最も重要な神社といえる上賀茂神社

その神体山の神山が位置しています。


南には神功皇后を祀る城南宮が位置しています。


さて、北西の方向には何があるかということですが、

の方位に神護寺があります。

神護寺は基本的に和気氏の私寺ですが、

道教を排除した際の宇佐八幡宮と和気氏の関係から

八幡大菩薩の神意によって創建された王城鎮護の寺と言われています。


ただし、地祇を拝するという四方拝の趣旨から考えれば、

八幡菩薩という神功皇后ファミリーを拝していると考えるのは

必ずしも理に適っていません。

そのような点から考えると、やはり北西の地祇として、

出雲大国主(オオクニヌシ)のファミリーを拝していると考えるのが

妥当であると考えます。


飛鳥時代においては橿原神宮が、奈良時代においては神宮皇后陵が

北西に位置していましたが、

これは偶然であると考えるのが合理的であると考えます。


ただし、嵯峨天皇の100年後の時代に

清涼殿の北西方位の北野天満宮菅原道真を祀ったのは

深い意味があるものと考えます。

北西の方位は神門とも言われていて、天皇家に死をもたらす最強の怨霊

と考えられた菅原道真を祀るのには適した方位といえます。

おそらく平安期の天皇にとって北西は菅原道真の荒魂が座す方位であり、

内裏儀式などの書物にけっして明記することなしに

「大国主よりもよっぽど恐い」菅原道真を拝していたと推察します。


なお、地祇については、

上賀茂神社が本当は地祇の神社ではないかと私は疑っています。

[葵祭のルーツを探る-1] [2] [3]


一方、最後に拝した二陵というのは、組み合わせ的には、

父&母の陵墓か、先代天皇&初代天皇(神武天皇)の陵墓あたりではと

私は思います。いずれにしても方位には関係しないようです。

嵯峨天皇の場合、父は桓武天皇で母は藤原乙牟漏

先代天皇は平城天皇ですが、その方位には規則性はないようです。

参考までに下図は平安京の南にある重要宗教インフラを示したものです。


四方拝


上賀茂神社のルーツの神が鎮座すると考えられる高鴨神社

長い盆地の南端に位置するのが興味深いところです。


ところで、現在の四方拝でも遥拝の対象となっている石清水八幡宮ですが、

方位的な観点からは特別な位置とは言えないと思います。
あくまでも地形的な観点から平安京の王城鎮護には最重要なポイントとして、

また道教から現在の皇統を守った神が勧請された神社として

四方拝の対象になり、これが現在も踏襲されているのではと推察します。


なお、平安時代以降、東京遷都明治維新まで

四方拝関連記事に大きな変化が認められないことから

京都ではこの四方拝のスタイルが続いたものと考えられます。



4現在


東京遷都によって当然四方拝の対象は大きく変わったと考えられますが、

京都での四方拝のフィロソフィーは踏襲されているものと考えられます。


現在の四方拝の対象を地図上にプロットすると下図のようになります。


四方拝


まず、伊勢神宮の方位は特別な方位とはいえません。

地祇の本拠の出雲大社は概ね西に位置します。

旧正月は概ね節分と一致しますが、

皇居から見た日の入りの方位(S70W)は概ね富士山と一致します。

大田道灌江戸城を築城する際にこのことを知っていて

江戸城の位置決めをしたのかもしれません。

鹿島神宮香取神宮はちょうどその逆方位にあります。

神武天皇陵がある大和は富士山の背後に位置します。

また、賀茂神社(上賀茂&下鴨)、明治天皇陵石清水八幡宮がある

京都はS80Wの方位で熱田神宮ともほぼ一直線で並びます。

この方位は明治神宮の方位と概ね一致します。


四方拝


さらに大正天皇陵昭和天皇陵がある武蔵陵墓地

皇居のほぼ真西にあります。

また、氷川神社はやや西によった北側にあります。


こうやって見ると、飛鳥~江戸時代に続けられてきた

「四方」が「東西南北」を意味した四方拝とは異なり、

「四方」が「全方位」を意味した四方拝となっていることがわかります。


これは都ができた後に宗教インフラがレイアウトされた

飛鳥・平城京・平安京と東京では事情が異なるためと考えられます。

ただし、東京遷都後に創建された明治神宮や武蔵陵墓地は

皇居から見て西方浄土である真西に位置しています。

これは古式ゆかしき伝統に習ったものと考えられます。


さて、あくまで大雑把ではありますが、

初詣で賑わう明治神宮や成田山や川崎大師が皇居から見て

それぞれ西・東・南に近い方向に位置しているのは面白いところです。


四方拝


また、賀茂神社・伏見稲荷・北野天満宮・熱田神宮など

関西圏・中部圏の初詣で賑わう神社も

先に示したように四方拝に少なからず関連していると考えられます。


おそらく私たち庶民は鋭くそのあたりの空気を直感的に読んで

初詣先を決めているのではと思ってしまいます(笑)


いずれにしても四方拝は本当に奥が深い神事であると思います。