葵祭のルーツを探る-3 | 西陣に住んでます

葵祭のルーツを探る-3

西陣に住んでます-京都御苑



「葵祭のルーツを探る」の第三弾です。


[葵祭のルーツを探る-1]

[葵祭のルーツを探る-2]

[葵祭のルーツを探る-3]


本来は「賀茂祭」と呼ばれた京都の葵祭は、
朝廷が主催する京都で最も大きな大内裏外の祭
であったことが知られています。


そして、そのような最も大きな祭りで誰を祀ってきたか?
と言うことですが、これは[上賀茂神社の由緒] にもあるように
賀茂大神と呼ばれる神様であることは間違いないものと思われます。


上賀茂神社由緒


欽明天皇の時代(539~571年)。国中が天災に見舞われ、庶民が非常に貧窮していたので、欽明天皇が卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に天災の原因を占わせたところ、賀茂大神の祟りであることがわかりました。そこで、4月吉日を選び馬に鈴をかけ、人は猪頭をつけて盛大に祭りを行いました。 その結果、五穀は実り、天下泰平になったそうです(「賀茂縁起」より)。


最初に、賀茂祭で祀られている神を紹介しておくと、
葵祭を運営する二つの賀茂神社のうち、


賀茂御祖神社(下鴨神社)には
賀茂建角身命(カモタケツヌミ)玉依姫命(タマヨリヒメ)が、

賀茂別雷神社(上賀茂神社)には
賀茂別雷大神(カモワケイカヅチノオオカミ)が祀られています。


これら三神は山城国風土記逸文に登場します。


「釈日本紀」風土記逸文 山城国


日向に降臨して神武天皇の東征にあたって道案内をした賀茂建角身命は、大和国の葛木山の峯に住んだ。その後、山代国の岡田の賀茂に移り住み、山代河(木津川)を下って葛野河(桂川)と賀茂河(鴨川)の合流点(久我)に至った。そこで賀茂河を石川の瀬見の小川と名付け、さらに上って久我の国の北の山基(賀茂)に定住した。
賀茂建角身命は、丹波国の神野のカムイカコヤヒメ(神伊可古夜日売)を娶って、タマヨリヒコ(玉依日子)とタマヨリヒメ(玉依日売)を生ませた。タマヨリヒメが石川の瀬見の小川で川遊びをしているとき、丹塗矢が川上から流れてきた。これを持って帰り床に挿して置くと、妊娠して男子を産んだ。男子が成人すると、賀茂建角身命は盛大な酒会を開き、「汝の父と思う人にこの酒を飲ませなさい」というと、男子は酒杯を天に向かってささげ、屋根を破って天にのぼった。賀茂建角身命は、この男子を賀茂別雷命と名付けた。丹塗矢は乙訓神社の火雷神の化身とされる。


下鴨神社の賀茂建角身命と玉依姫命の尊称が「命」、
上賀茂神社の賀茂別雷大神の尊称が「大神」であることを考えると、
祭神としてのプライオリティーは賀茂別雷大神にあると考えられます。
一方、賀茂建角身命には玉依日子という嫡子がいるにもかかわらず、
娘の玉依日売の子の賀茂別雷大神に家督を譲ったことが
気にかかるところです。この点については、後ほど考察します。


ここで、


この賀茂大神を祀る賀茂祭については極めて大きな謎があります。


賀茂大神はその名の通り、
平安京遷都前に京都を支配していた豪族の賀茂氏の祖神であることは
疑いの余地もないと考えられますが、この神に対して、
天皇は自らの皇女(一般的に未婚の内親王)を
斉王と言う名の巫女として奉仕させます。
ちなみに、天皇が斉王を送るのは、
天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祀る伊勢神宮
賀茂大神を祀る賀茂神社のみです。


普通に考えて、
なぜ、天皇が一氏族の祖神に対して、皇女を奉仕させてまで
祀らなければならないのか?という単純な疑問が生じます。

上記の上賀茂神社の由緒を見ると、
欽明天皇の時代に国中が天災に見舞われたときに
賀茂大神の祟りであることがわかり、
賀茂大神を祀ったところ、世の中は平穏になったということが
祭祀のモティヴェイションになっているようにも見えますが、
賀茂大神の祟りがあると言うことは、
賀茂大神に対して朝廷が過去に何か悪いことを犯している
という事実が必要になりますが、
記紀や風土記にもそのような記述はありません。


逆に、祖神を祀るに値するような顕著な業績が賀茂氏にあるか?
となると、そのような記述も記紀や風土記にみあたりません。
あるとすれば、神武天皇の東征時に
賀茂建角身命ヤタガラスに変身して
熊野から大和までの間に道案内したのみです。


さらに謎が深まるのですが、
古代氏族の出自について示してある「新撰姓氏録」(平安初期)に
賀茂氏の出自として3つの説が存在することです。
(この3つの出自については、もともと葛城研究の第一人者の
鳥越憲三郎氏が指摘しています)


(A) 鴨県主:左京皇別

治田連同祖、彦坐命之後也

開化天皇の皇子の彦坐命の子孫である」という記述です。
左京皇別というのは、左京を拠点とする天皇から別れた氏族という意味です。


(B) 賀茂県主(鴨県主):山城国神別天神
神魂命孫武津之身命之後也。神日本磐余彦天皇[謚神武。]欲向中洲之時。山中嶮絶。跋渉失路。於是。神魂命孫鴨建津之身命。化如大烏翔飛奉導。遂達中洲。天皇嘉其有功。特厚褒賞。天八咫烏之号。従此始也。

「神宮東征時、カミムスビの孫の鴨建津之身命(カモタケツヌミ)は大カラスに変身して道案内した。天皇はこれを褒めて八咫烏号を与えた。これを始祖とする」という記述です。
神別天神というのは、天孫降臨時にニニギとともに地上に降りた神(天津神)の子孫のことです。実質的には、オオクニヌシに国譲りさせる前からアマテラスの支配下にあった氏族と言えます。山城国(現在の京都)を本拠としています。


(C) 賀茂朝臣(鴨朝臣):大和国神別地祇
大神朝臣同祖 大国主神之後也 大田田祢古命孫大賀茂都美命[一名大賀茂足尼。]奉斎賀茂神社也

三輪氏と同祖、大国主神(オオクニヌシ)の子孫である大田田根子の孫の大賀茂都美命を始祖として、賀茂神社を祀る」という記述です。
神別地祇というのは、天孫降臨前にすでに地上にいた神(国津神)の子孫のことです。実質的には、オオクニヌシの支配下にあった氏族と言えます。大和国(現在の奈良)を本拠としています。


賀茂氏の祖神である賀茂大神を考える上では、
上記の3つの出自を合理的に説明する必要があります。


まず、(A)の出自については、賀茂氏は
欠史八代の最後の天皇でもある第九代天皇の開化天皇から
別れた(臣籍降下した)氏族であるとするものです。
開化天皇は第九代天皇であるため
初代天皇の神武天皇の東征で貢献したという古事記の記述と
矛盾が生じることになり、

賀茂氏の最大の業績は否定されることになります。
ちなみに、神武天皇=崇神天皇という有力説を仮定した場合、
崇神天皇の一代前の開化天皇の子孫であるという属性は、
神武天皇の東征に協力したという説話に整合的と言えます。
つまり、欠史八代の天皇は実在しましたが、大和朝廷という
全日本レヴェルの大王ではなかったと考えるものです。
ただし、この場合についても、上述した理由のため
なぜ、天皇が一氏族の祖神に対して、皇女を奉仕させてまで
祀らなければならないのか?という単純な疑問を解消する
わけにはいきません。


次に、(B)の出自については
山城国風土記にある由緒に合致するものです。
ヤタガラスについて、日本書紀には次のような記述があります。


「日本書紀」神武天皇


アマテラスは大和平定を目指すカムヤマトイワレビコ(神日本磐余彦尊)にヤタガラス(八咫烏)を送った。ヤタガラスは熊野から皇軍の道案内をした。
連戦を繰り返す中、高尾張村にいる背が低く手足が長い土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って覆い捕えて殺した。そこでこの村を葛城と改名した。
その後、カムヤマトイワレビコは大和を平定し、即位して神武天皇となった。論功行賞が行われ、剣根が葛城国造になった。ヤタガラスの子孫は葛野主殿県主となった。


まず、私は神武東征に相当する戦いは実際にあったと思っています。
そして、土蜘蛛との戦いで葛を使ったことにより葛城と言う地名ができ、
功績のあった賀茂建角身命がこの地を拝領したと考えます。
また、神武東征はオオクニヌシの国譲りにおける最後の抵抗勢力との戦い
なのではと考えます。崇神天皇の政治の中心地である三輪山で

オオクニヌシの幸魂・奇魂と言われるオオモノヌシ(大物主)

が祀られていることから、オオクニヌシの国譲りと大和朝廷成立との間には
ほとんどタイムラグがないと思うからです。


同様に賀茂建角身命も葛城でオオクニヌシのファミリーを
「鴨(賀茂)」の名をつけた高鴨神社、中鴨神社、下鴨神社で
しっかりと祀っています。
ちなみに、剣根という人物が葛城国造になったということですが、
記紀にはその業績がまったく語られていません。
「新撰姓氏録」によれば、高御霊命五世孫剣根命、
つまり剣根はタカミムスビの五世の孫という記述があり、
天津神の有力者の息子であったと考えられます。
私は剣根が一言主の祖先である可能性もあると思っています。

なお、この賀茂氏の出自だけでは、上述した理由のため
なぜ、天皇が一氏族の祖神に対して、皇女を奉仕させてまで
祀らなければならないのか?という単純な疑問を解消する
わけにはいきません。
それと賀茂氏がなぜ葛城を去ったのかも謎と言えます。


最後に、(C)の出自については、第一弾記事で紹介した葛城の
アヂスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神)

関連するものと考えられます。
私は、古事記でアマテラスとイザナキ以外に唯一、
何の説明もなしに大御神(オオミカミ)の尊称をつけて
迦毛大御神(カモノオオミカミ)と呼ばれる
アヂスキタカヒコネこそ賀茂大神の正体であると思っています。


アヂスキタカヒコネは、
古事記と日本書紀のどちらにも登場します。
話は大差ないので、ここでは日本書紀の記述で紹介します。


「日本書紀」葦原中国平定


天(高天原)を治めるタカミムスビ(高御産巣尊)とアマテラス(天照大神)は、国(葦原中国)を治めるオオクニヌシ(大己貴神)に国を受け渡すようアメノホヒノ(天穂日命)を使者として地上に送ったが、オオクニヌシに帰順して三年たっても復命しなかった。そこで次に天稚彦(アメノワカヒコ)を使者として送ったが、アメノワカヒコはオオクニヌシの子の下照姫シタテルヒメと結婚し、いつまでも復命しなかった。タカミムスビとアマテラスは雉(キジ)を送って復命しない理由を聞いたが、アメノワカヒコはその雉を天の神から授かった矢で射ぬいてしまった。血のついた矢はそのまま天に届いた。「もしアメノワカヒコが裏切ったのであれば矢にあたって死ね」というとタカミムスビは矢を天から突き返すとアメノワカヒコに命中し、アメノワカヒコは死んだ。
アメノワカヒコの父のアマツクニタマ(天国玉神)は、アメノワカヒコの葬儀を行った。そのとき、葬儀に参列していたシタテルヒメの兄の味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネ)がアメノワカヒコとそっくりであったため、アマツクニタマはアメノワカヒコが生きていたものと勘違いしてアヂスキタカヒコネに抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢わしい死人と一緒にするな」と怒り、喪屋を切り倒して蹴り飛ばした。
その後、オオクニヌシは、子のコトシロヌシ(事代主)の意見を受けて国を譲ることを天に約束した。


もうひとつ、興味深い話を紹介します。


「賀茂之本地」


天上ではアヂスキタカヒコネと呼ばれ、地上ではワケイカヅチとして現れた。神代に日向に降臨してから大和国の葛城の峰(金剛山)に移り、もともとこの山にいた賀茂建角身命という神は、山を譲って山城国の愛宕郡岡田村(木津川市加茂町)に移った。


私は、以上のような日本の神代の話は大和朝廷の成立前~初期の
各種エピソードを基に編纂されたものであると考えます。
このアヂスキタカヒコネのエピソードもその一つであると思います。


そのような前提の中で、
アマツクニタマ=賀茂建角身命と仮定すると、
これまでの話を合理的に統合することができます。


(1) 神武天皇の親戚の賀茂建角身命は皇軍に加わった。
(2) 神武天皇の皇軍は、金剛山(高尾張村)に定住していた

  尾張氏を葛の網を使って破り、この地を葛城と呼んだ。
(3) 天皇の外戚の名家出身の剣根は、大和平定の論功行賞で

  葛城山の麓に領地をもらい、一言主神社を創建した。
(4) 賀茂建角身命は、大和平定の論功行賞で金剛山の麓に

  鴨神社(高鴨神社、中鴨神社、下鴨神社)を創建した。
(5) 不慮の事故で息子の玉依日子を亡くした賀茂建角身命は、

  土蜘蛛の怨霊を恐れ、オオクニヌシの息子のアヂスキタカヒコネに

  葛城を譲り、木津川市加茂町、桂川(葛野川)、鴨川を順に経由して

  上賀茂に移り住んだ。
(6) アヂスキタカヒコネは、賀茂建角身命の後を追って

  賀茂別雷命を名乗り、上賀茂に移り住んだ。
(7) 天皇の日本統一において最大の敵であった

  オオクニヌシ一族の怨霊(オオモノヌシ)を恐れる朝廷は、

  山城国の平安京でもオオクニヌシ一族の霊をおさめるため、

  オオクニヌシの嫡子のアヂスキタカヒコネを丁重に祀ることを考え、

  賀茂祭を大々的に行うようになった。


このように考えることで、
次の素朴な疑問を統一的にすべて解消することができます。


・なぜ賀茂氏の出自は皇別・神別天神・神別地祇の3つがあるのか。
・なぜ賀茂建角身命は嫡子の玉依日子に家督を譲らなかったのか?
・なぜ賀茂建角身命はわざわざ葛城を去ったのか?
・なぜ賀茂建角身命はアヂスキタカヒコネに家督を譲ったのか?
・なぜアヂスキタカヒコネは迦毛大御神と呼ばれるのか?
・なぜ朝廷は賀茂祭を重要な祭として特別視するのか?


なお、賀茂別雷命は、オオクニヌシの幸魂・奇魂と言われる
オオモノヌシの子であると朝廷は信じていたものと私は思います。
それは、朱塗矢などに変身して女性に近づくと言うのは、
オオモノヌシの常套手段であり、

賀茂別雷命はその朱塗矢の子であるからです。

オオモノヌシの話としては以下のようなものがあります。

関連の系図と併せてお読みください。


西陣に住んでます-賀茂大神関連系図



「古事記」大国主神(少名毘古那神と御諸山の神)


オオクニヌシに海上を照らして近寄ってくる神が「丁重に私の御魂を祀ったなら協力して国造りを完成させよう。そうでなければ国づくりはできないであろう」といった。オオクニヌシはこの神を御諸山(三輪山)に祀った。この神はオオモノヌシ(大物主)である。


「古事記」神武天皇(伊須気余理比売)


オオモノヌシは容姿の美しいセヤダタラヒメを気にいって丹塗りの矢で陰部を突いた。その後、矢は立派な男性に変わって、セヤダタラヒメと結婚し、イスケヨリヒメ(日本書紀:五十鈴依媛命)が生まれた。イスケヨリヒメは神武天皇と結婚し、綏靖天皇を生んだ。


「日本書紀」崇神天皇(大物主大神を祭る)


崇神天皇の代に疫病が流行した。天皇は、子のトヨスキヒメ(豊鍬入姫命)にアマテラスを祭らせたが、災害はおさまらなかった。そんな中、オオモノヌシがヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)に乗りうつって「子のオオタタネコ(太田田根子)にオオモノヌシを祭らせれば国はおさまる」と言った。天皇はオオモノヌシとイクタマヨリヒメ(活玉依比売)の子というオオタタネコを探し出し、三輪山にオオモノヌシを祭らせると疫病はおさまった。


「古事記」崇神天皇(三輪山の大物主)


オオタタネコがいうには、美しいイクタマヨリヒメのもとに夜ごと立派な男が現れ、姫は身ごもった。両親が心配して男に糸をつけて後をたどると三輪山の神社に続いていたことから、男がオオモノヌシであることがわかった。


「日本書紀」崇神天皇(四道将軍)


ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)はオオモノヌシの妻になった。ただ、オオモノヌシは夜しか姫のもとを訪れなかった。一度姿を見たいという姫の要請に対して「朝に櫛箱の中に入っているので驚かないように」とオオモノヌシは答えた。朝になって姫が櫛箱をのぞくと、中に蛇が入っていた。姫が驚いて叫ぶと蛇は人の形になった。オオモノヌシは恥じて三輪山に登って行った。姫が座り込むと、箸が陰部に刺さって亡くなってしまった。姫の墓はは箸墓と呼ばれている。


以上の話から、オオモノヌシが、

女性に対して身体を変身させてアグレッシヴにアタックすると同時に

自分を祀らないと悪いことが起こると強調する神であることが

わかるかと思います。

まさに朝廷が最も恐れる神と言えます。


最後に、非常に不思議なことなのですが、
京都には非常に多くの神社がありますが、
オオクニヌシを祀る神社がほとんどありません。
そして、オオクニヌシを大々的に祀っている神社と言えば、
それは下鴨神社の言社です。


下鴨神社website

言社は大國さんと親しく呼ばれている。大國さんとは、大国主命の略称で、正式社名は言社であり七つのお社がある。


一言社 大国魂命・顕國魂命
二言社 大国主命・大物主命
三言社 大己貴命・志固男命・八千矛命


また、言社はエトの守護神としても有名で古くから信仰をあつめている。各お社ごとに御神徳があり、それをエトで表わし、ネ年からイ年までの生れ年の守護神として信仰されるようになったお社である。


このように下鴨神社が京都でオオクニヌシを祀る

珍しい神社であることもその祭祀の対象が

オオクニヌシ一族に関連することを示唆しているものとも考えられます。



メモメモメモメモメモ



以上、葵祭のルーツ(起源)について考察してきました。


やはり、朝廷は崇神天皇の時代から
アマテラスとオオクニヌシ(オオモノヌシ)の2神を
中心に祀っていて、そういった点では、京都においても
伊勢神宮の斎王と賀茂神社の斎王の両方を派遣して
祭祀を行ったことは非常に理に適っています。


今後も葵祭の起源について注意深く考えていきたいと考えます。