十二

母にはわかっていた-。
姉が大きな鞄に荷物をたくさん詰め込んできたわけも、実家の近所の幼稚園のパンフレットを持ってきたわけも、そして、姉の夫、隆史兄さんの話題を一言も出さなかったわけも。
姉が、実家に帰ってくるつもりで今日の一周忌にきたことを、母は、姉がきたときからわかっていた。
母は、姉に向かって静かに話し始めた。
「樹木はみんなそうだけど、立派に育つためには根がしっかりしていなきゃだめよね。
盆栽の場合、『鉢』という限られた条件の下で木を育てるから、根の健康を保つために日頃の手入れ、それも愛情のこもった手入れを怠らないようにしなきゃだめなのよ。それに比べて、人間って、きれいに見せることは簡単よね。でも、人間も、自分を成長させていくためには、毎日の手入れが大切なんじゃないかしら?仮にきれいに見える盆栽であっても、根が腐っていちゃ、何にもならないのと同じように、人間も根が健康でなきゃ、意味がないじゃない?」
「人間の根?」
姉は、不思議そうに尋ねた。
「そう、人間の根。それはね、心よ。だから、心が健康じゃなきゃね」
「う、うん」
少しのためらいはあったものの、母の言葉に素直に頷いた姉の姿が、妙に清々しく見えたのは気のせいだろうか。


     十三


「母さん、盆栽の枝を斬っちゃってごめんなさい」
僕は驚いた。姉が「ごめんなさい」という言葉を口にしたからだ。姉が母に謝ったことなんて、少なくとも僕の記憶にはない。
「盆栽の枝を斬って、すっきりした?ストレス発散になったかしら?」
母の言葉に、姉は少しためらいながら、無言で首を縦にふった。
「ストレスも溜め込み過ぎると、人間の根が腐る恐れがあるわね。だから、ストレス発散も大切よね。母さんのストレスも、ミサちゃんがだいぶ解消してくれたもんね」
姉は、照れくさそうに微笑んだ。
「でもね、母さんは、ストレスが根を育てる栄養になることもあると思うの。」
「栄養?」
「そう。嫌なこと、つらいこと、ムカつくことに対して『我慢』すると、それが栄養になるの。母さんは、弘子さんのおかげでだいぶ栄養を摂取できたわ」
母は笑いながら語っていたが、僕はいたたまれず口を挟んだ。
「なんで、『タマネギ』が栄養の素になるわけ?」
「ミサちゃんも、雄介も、『我慢』っていう言葉の意味は、『辛抱すること』だけだと思っているでしょ?」
「そうじゃないの?」
母は、
「雄介は、国語の先生だから知っていると思うけど」
という皮肉に聞こえる前置きをしてから話した。
「『我慢』にはね、『自分の意志をとおす』という意味もあるのよ」
僕は、知らなかった。
「へえー」
僕は、母がこんなにも博学だとは思わなかった。もともと教師であることのプライドなんて持っていなかった僕だが、姉と二人で感心するよりほかはなかった。
「母さんは、これは『辛抱していると、いずれは自分の思いが通じる』っていうことだと思っているのよ。もちろん、母さんの勝手な解釈だけどね。人間関係では、他人がいるからストレスが溜まるんだけど、辛抱すれば、それが栄養になって、必ず自分の思いが相手に通じると信じて、毎日生活しているの」
何となくではあるが、僕は母の言いたいことがわかるような気がした。姉も僕と同じだったに違いない。
「母さん、盆栽の枝を斬っちゃって、本当にごめんなさい。私、取り返しのつかないことをしちゃったわ。だって、斬ったら、もう元には戻らないもの」
「わかってもらえたみたいね」
母は姉を抱き寄せた。
「盆栽の枝を斬ったことは、もう忘れてもいいから、里奈のことは大切にしてあげてね。決して、ストレス発散の対象にしないようにね。あなたの気持ちは晴れるかも知れないけど、里奈の大事な根が育たなくなっちゃうからね」
姉がいくぶん涙声で、
「うん、わかった。母さんありがとう」
と言うと、母は自分で自分を納得させるような口ぶりで、
「私の話もここまでにしておくわね。父さんみたいに」
「えっ?」
僕たちは母の言っている意味がわからなかった。
「いいのよ、もう。母さんも子離れしなきゃね」
すると、
「おばあちゃん、おなかすいたー」
と言いながら里奈が二階から降りてきた。
「里奈ちゃん、ごめんねー、もうすぐだからねー」
母は大急ぎで夕食の支度に取りかかった。


    十四


夕食が終わった。皮肉なものだが、父親が亡くなって、初めて経験した「一家団欒」だった。 僕は、今日は妙に母と一緒にいたかった。
「僕も今日泊まっていいかな?」
「でも、明日は学校じゃないの?」
「明日は、『あさいち』で学校に行けば間に合うからさ」
僕が勤務している中学校は、実家から一時間ほどかかる隣町にあった。二階建ての庭付きの一軒家から通勤するのも悪くはなかったが、以前から、両親の束縛から逃れられる一人暮らしにも憧れていた。自ら率先してやる気はないが、いずれ部活動の顧問を任せられることもあるだろうと思い、僕は、教師になってからは中学校から歩いて五分ほどのマンションに一人で暮らしている。
「別にいいけど、急にどうしたの? 一人暮らしがいいって言うから、わざわざ一人暮らしさせているのに」
「久しぶりに家に帰ってきたら、何だかホッとしちゃってさ。もう帰るのは面倒だし。それに、もっとゆっくり盆栽を眺めてみたいし」
「盆栽を眺めてみたい」という、とってつけたような理由なんて、いかにもわざとらしいとは思ったが、恥ずかしくて本当のことを言えるはずがない。
母は、笑いながら、
「どうぞ、ご自由に」
と返事してくれた。そして、徐に、
「そういえば、雄介も人間の根を育てる仕事をしているのね」
と、話しかけてきた。
僕は、母の言っている意味がわかった。
「そうだね。だから僕も、生徒をストレス発散の対象にしちゃダメだね」
「雄介にもわかってもらえて嬉しいわ。忘れそうになったら盆栽のことを思い出してね」
「わかっているよ、母さん。それから、僕は、今度、学校に盆栽を持って行こうと思っているんだ。それに、そのうち担任を持つことになったら、クラスで盆栽を育ててみようとも思っているんだ」
僕の言葉に、母は眼を細めて、
「これで、母さんも安心だわ」
と呟いた。


     十五


久しぶりに実家で朝を迎えた。
窓に太陽の光が差し込んで眩しく感じる。
僕はその窓越しから目に入る盆栽を眺めていたが、ふと「自分」がないことに気づいた。
僕が昨日、「学校に盆栽を持って行きたい」と言ったから、母さんが気を利かして僕がもって行けるように用意をしてくれているんだと思っていた。
それにしても、母の声がしない。僕が実家にいたときは、毎日のように、早起きが苦手な僕を起こしにきてくれていた。その母の声がしない。
僕は急いで居間に行ってみた。
そこには、「僕」を大事そうに抱えて横たわる母の姿があった。


「母さん!」


母の目は、もう二度と開くことはなかった-。

          完