時が過ぎ去り時代が随分変わった。

首都の東京の様相は尋常でなく、

今の時代を映しだしているようだ。


東京の浅草寺にゆくと、時勢のな

かで、変わっていく様子を知るこ

とができる。

 

浅草寺(映画弁士塚)

浅草寺境内には「映画弁士塚」が

ある。

 

 

 

浅草寺境内の「映画弁士塚」(手前「社長名碑石」)

 

 

映画弁士塚と大蔵 貢

映画弁士塚の発起人は大蔵 貢で、

この映画弁士塚の石碑は昭和34

(1959)年に建立され同年8月

18日に除幕式がもたれている。

 

映画弁士塚

題字「映画弁士塚」の文字は鳩山一

郎前自民党総裁、「社長名碑石」は

永田雅一(大映社長)による。

永田雅一は、児玉誉士夫とともに自

民党結党当初より、鳩山一郎の黒幕

として戦後の政界の派閥政治を財界

と結びつき関与してきている。

 

大蔵 貢(映画弁士塚)

映画弁士塚発起人の大蔵 貢について。

大蔵 貢は、戦後東宝争議の落とし子

として発足した新東宝の社長となり、

彼は商業性に徹し、当時タブーだっ

た天皇を主役とする映画「明治天皇

と日露大戦争」を企画する。

昭和32年の「明治天皇と日露大戦争

」は空前の大ヒットで、興行配収7億

円を記録した。

同年昭和32年9月19日、1億円横領

嫌疑で一斉捜査受けることになった

が、この事件はひとりの逮捕者も出

ず不起訴になった。

この年1959年に公開された映画が

「女間諜暁の挑戦」。

 

大蔵貢(スキャンダル)

映画「女間諜暁の挑戦」・弁士塚建立

の翌年昭和35(1960)年、大蔵貢は

女優・高倉みゆきとの関係がマスコミ

に知られる。

記者会見があった。

このとき大蔵貢は

「女優を2号にしたのでなく、2号を

女優にしたのだ」

と言い、話題になった。

 

のち高倉みゆき(1934-)は美貌を

誇る新東宝の路線の象徴女優として

数々の映画に出演。昭和34年結婚後、

昭和44(1969)年に映画界から引退。

 

 

女優・高倉みゆき

 

一方の大蔵貢は、昭和36年に新東宝

が倒産し、昭和37(1962)年大蔵

映画株式会社設立。

大蔵映画はプロデユーサー体制とら

ず不調に終わり、ピンク映画専門の

会社になる。大蔵貢昭和53(1978)

年9月15日没79歳。

 

東京の浅草寺での映画弁士塚。

昭和の時代に話題になった「女優を

2号にしたのでなく、2号を女優に

したのだ」は、遠い昔の噺だが、

昭和の時代のひと(男女)は過去か

らの時の流れ(時勢)のなかで今を

生きていたように思える。

 

 

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