河内松原の大海池

河内松原駅より中高野街道を北にゆ

くと大海池がある。

大海池は大和川の南、松原市の北側

に位置し、大海池の北向かいに屯倉

神社がある。

 

 

大海池(大阪府松原市三宅東2丁目)

 

屯倉神社(平安時代)

屯倉神社の屯倉は(みやけ)と読み、

松原市の三宅にあり、祭神は菅原道真。

この地は、古墳時代、天皇塚の直轄と

された依網屯倉(よさみみやけ)の旧

跡と伝えられ、屯倉・三宅の名もこれ

による。

土師氏(のち藤原氏に改姓)の祖神の

天穂日命を祀る「穂日の社」があり、

天慶5(942)年菅原道真公を祀った

のがその創めの由来である。

 

屯倉神社(江戸時代)

神社は縁起によれば河内国丹北郡依網

屯倉天満宮としてあり、「穂日の社」

の地に建立され、神社の拝殿前には、

穂日の社の頃に菅原道真公が立ち寄り

鎮座したという石(神形石)を妻屋氏

が建立(文久2・1862年)する。

 

 

 

屯倉(みやけ)神社(大阪府松原市三宅中4丁目)

 

三宅行基墓地(行基)

屯倉墓地の東隣に、「河内七墓参り」

のひとつの三宅行基墓地がある。

かつて、疫病が流行し、飢饉により、

死者が蔓延し死体が野ざらし状態の頃

があった。このとき行基は、民衆に呼

びかけ、地域の人々ともに茶毘にふす。

これが盆のときに七墓参りする起源と

なり、現在に至る。

 

 

三宅行基墓地

 

行基と狭山池

狭山池は、行基によって築造される。

百済や隋・唐から灌漑のための技術が

伝わり、天平3年辛未、西暦751年に

改修。あわせ狭山池院と尼院を建立す

る。

 

行基と灌漑施設

行基は、旅行者に宿所と食料を提供す

る布施屋や橋・道の建設など社会事業

とあわせ池・溝・樋・堀などの灌漑施

設をつくった。

大阪府下でいうと、河内の狭山池、和

泉の久米田池等、多数の築造、修築が

おこなわれている。

 

 

行基菩薩像(狭山池博物館)

 

鎌倉時代

鎌倉時代1202年重源により狭山池が

改修される。このときの重源の改修に

よって西除川の堺にも流れるようにな

り、より農地が広がることになる。

河内松原(室町時代)

室町時代の松原荘は現在の岡・新堂・

上田にあたり、京都太秦の広隆寺の荘

であった。狭山池の灌漑範囲の松原

荘は狭山池改修のときに費24貫文を負

担している。

その後(江戸時代)

その後慶長19(1614)狭山池改修工

事をした片桐且元の跡が残されて在る。

尺八樋と呼ばれ、四段の取水口を取り

付けていた。翌年片桐且元は、病を患

うなか、大坂夏の陣で徳川方で出陣し

たのち亡くなる。

 

大海池辺りの地は平安時代より人々が

暮らし、また南の狭山池からの西除川

から灌漑用の水を引きこれを利用して

いた。

 

 

 

17世紀(新大和川付替え以前)の狭山池と灌漑範囲

 

 

 

 

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