戦後77年、

世界の中の日本。内憂外患の岸田内閣。

自民党結成以後、派閥により組閣され、

これを闇のなかで操っていた男がいる。

戦後、ロッキード事件でテレビの前に

国民の前に姿を見せた児玉誉士夫という

戦後最大の黒幕。以下彼の自伝による。

 

岸信介内閣

昭和32(1957)年2月岸信介が首相になる。

岸政権、当分安泰かとみえたが、社会党は警職

法が上程にされるに及び猛反撃に出、廃案にな

る。

同年12月27日池田勇人(国務相)、三木武夫

(経企庁長官)、灘尾弘吉(文相)は党内人事

刷新を叫び、辞表を提出。

岸総理は、つぎの総裁の再選重任の目途がつず。

結局、岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作

の四者の話し合いに児玉誉士夫も立ち合い、誓

約書をかわす。

『昭和34年1月16日、萩原・永田・児玉三君立

会の下に於いて、申し合せたる件については協

力一致、実現を期すること、右誓約する』と認

め、それに岸・大野・河野・佐藤の各氏の順で

署名し、この一札は萩原さんが預かることにな

った。

 

 

岸・大野・河野・佐藤四者の誓約書

 

こんな政治の舞台裏にあえて登場する必要な

いわけだが、わが国唯一の保守党である自民

党をして、国民一般からほんとうに信頼され

うる、健全な政党になって貰いたいとの純粋

素朴な気持ちによるものであった。

結果、昭和34(1959)年1月24日の党大会

では岸信介が全票の3分の2を獲得し、松村謙

三を圧倒的に押え総裁になる。

 

 

 

舞台「次期総裁選」

日米安保条約が衆議院で強行採決、これが

参議院に回り、自然承認になるまでおよそ

1ヶ月は、さながらカナエの沸くようなさ

わぎであった。

国会周辺の反対デモ隊の波状攻撃、暴徒化

した一団は首相官邸を取り囲み、岸総理は

カン詰め状態にする。

ついに岸さんは退陣を表明、同時に舞台は、

次期総裁選に移る。

 

 

国会前安保改定反対のデモ(昭和35(1960)年6月16日・樺美智子死亡翌日)

 

次期総裁選「内密」

まず名乗りをあげたのは池田勇人、大野伴

睦、石井光次郎の三者で、投票日ちかくに

なり、藤山愛一郎氏が一枚加わった。

四者のうち、岸前総裁は池田・大野・河野

の三候補が争うより話し合えるよう、斡旋

方を川島幹事長に一任した。

川島氏が言うには岸さんは「表向き大野く

んを支持できないが、大野くんの期待に添

えるよう、骨をおって欲しい」とたのまれ、

川島さんからじぶんに話があった。

河野は安保問題で岸政権も取りツブシ役に

まわり、ひとつ船に乗ることはできないか

ら、大野くんと袂を分かっている恰好でい

てくれるよう河野氏を説得してもらいたいと。

で、その旨を自分から河野さんに話すと、納

得してくれ、投票がすむまでその態度はくず

さなかった。

結局のところ、池田、大野、石井の三者の話

し合いが不調に終わった。

 

内密「総裁・総理の分離案」

7月13日の総裁選2日前、11日。

例により帝国ホテルの永田さんお部屋で、

大野・河野・永田・萩原の諸氏に自分も加

わり6名で会合。

河野氏から「党の総裁と内閣の首班を分離

させ、公選で勝ったあといずれかの椅子を

渡すようにしてはどうか!」に易々と河野

案に応じた。

 

一晩でドンデン返し「総裁選」

総裁公選大詰めにくる7月12日午後。

例により帝国ホテルの永田さんの部屋。

大野・河野・永田・萩原の諸氏に自分も

加わり協議。そこへ大野派の参謀・水田

三喜男氏がとびこんで来、情報を提供。

 

その翌日の早朝、ニュージャパン・ホテ

ルの大野派事務所まで至急きてほしい連

絡がはいり、大野伴睦の話を聞く。「こ

のさい、自分を捨て、石井くを推したい

と考えておるーで、どううじゃろう、こ

こはひとつ、そういうことで諒承して貰

えまいか!」そこでじぶんは思わず「バ

カバカしいにもほどがある。」とどなっ

た。

じぶんはドンデン返しの裏にには、それ

相当の金がバラ撒かれているだろうし、

大野派の幹部、水田・村上の両氏らが石井

派のこけおどしにまんまとひっかかたのの

ではあるまいか?

自分の癇癪はなかなかおさまらず、村上勇

氏に向かって、「あんたはキンタマがある

のか!おやじ(大野氏)のクビが一夜のう

ちにすっ飛んでしまっても、石井のなめく

じヤローをかつぐつもりなのか!」ときめ

つけ、はては河野さんにまで、さんざん毒

づいた。

 

総裁選「回り舞台(池田勇人)」

各派もてんでバラバラのありさまのため

党大会で行われる予定の総裁公選も14日

に持ち越す。

忘れもせぬ7月13日夜。ニュージャパンホ

テル一室。石井氏がこの部屋を訪れ、伴睦

老と少談する寸劇、何時間もたたぬうち、

三木武夫、松村謙三の一派が石井支持にま

わったことが分かる。

総裁選の悲喜劇は、回り舞台の上でくるく

る変わった。

当日総裁選の結果。池田が新総裁に。

 

池田内閣誕生(おのれの面に泥をぬるな)

石井派をして盟約を反古にさせ、火事場ド

ロじみた、巾着切りふうの背信行為をやら

せた者は、いったい誰人であったろう。

これに類した小細工がつづけられるようで

は、自民党それ自身が、おのれの手で、お

れのツラに、泥をなすりつけるにひとしく、

いたづらに国民大衆の嘲笑を買うのがオチ

ではありはしまいか。

 

 

第一次池田勇人内閣(1960。ー1964)

 

ロッキード戦闘機問題(岸内閣)

岸政権から池田内閣誕生のこの間の真相は、

当時その裏面にあって直接関与した自分。

なおまた、岸内閣の当時のロッキード戦闘

機問題なども、じぶんみずから矢面に立ち、

萩原吉太郎・永田雅一・田仲彰治氏らの協

力をえ、足かけ2年の長きに及んで、政府

および、これと直接交渉のある三菱重工業

ならびに、一連の利権屋の巣窟を破砕する

ことによって、すべての黒白を明らかにした。

 


 

 

率直に言うと、これは自伝で自分の側から

みた立場から記す。かれは、自ら語るよう

に国家主義者で、自民党結成以前・以後か

天皇体制を擁護する右翼活動家で、金脈

・人脈を活かし、政界を裏で、操っていた

大黒幕である。戦後の内閣誕生の暗闇の裏

話を彼の気持ちもはいり知ることができる。

一方岸信介。児玉誉士夫とは、戦前・戦中

ら親交あり、冷戦下のもと、岸信介は首

として1960年の安保改定を乗り越え

田内閣にかわる。岸信介と統一教会は、反

共産主義を掲げ、たがいの利益・保全ため

に協力。岸は東京の教会本部で講演(197

0)をし、合同結婚式にメッセージを送る

(1982)など長年に渡り、その関係を構

築する。

岸信介は「昭和の妖怪」で岸鮮明といえる。

このように自民党は戦後から受け継がれて

き今に至る。

 

 

 

参考(メモ)

昭和元(1926) 年

昭和2(1927)  年  田中義一(内閣、昭和4没)

昭和3(1928)  年      久原房之介(鮎川義介)

昭和7(1932)  年  満州国(「弐キ参スケ」)

           (東条英機・岸信介・鮎川義介他)

昭和16(1941)年  第二次世界大戦「開戦」

昭和20(1945)年  終戦「敗戦」

昭和21(1946)年  東京裁判

           吉田茂(日本自由党総裁・内閣)  

昭和23(1948)年  昭和電工事件(GHQ関与)

昭和23(1948)年  芦田内閣(1948.3-10)

           吉田内閣(第2-3次・1952)

昭和25(1950)年  朝鮮戦争(~1953)

昭和26(1951)年  日米安保条約

昭和29(1954)年  吉田内閣(1948-1954)

           自由民主党結成

           鳩山一郎内閣(1954.12-1956)

昭和31(1956)年  石橋湛山内閣(1956-1957)

昭和32(1957)年  岸信介内閣(1957-1960)

昭和35(1960)年  日米安保条約(改定)

           池田勇人内閣(1960-1964)

昭和39(1964)年  佐藤栄作内閣(1964-1972)

昭和47(1972)年  田中角栄内閣(1972-1974)

昭和49(1974)年  三木内閣

昭和51(1976)年  ロッキード事件、福田内閣

昭和53(1978)年  大平内閣

昭和55(1980)年  鈴木内閣

昭和57(1982)年  中曽根内閣

昭和62(1987)年  竹下内閣

平成  2(1990)年  角栄政界引退・越山会解散

平成  5(1993)年      細川連立内閣 角栄死去12.6

 

 

 

国会議事堂(永田町)・霞が関・丸の内・皇居

 

 

2022.8.24

田中角栄「闇将軍」ー新東京物語(74)

2022.8.25

児玉誉士夫(自民党岸鮮明内閣「暗闇のなかで」)ー新東京物語(75)