戦後77年。
岸田内閣は、現在統一教会の関連で
国民不信が起こる。この問題は、
自民党結党以来続いている。
戦後の世界の黒幕・児玉誉士夫はいう。
岸内閣にかわった池田勇人内閣(昭和36
・1951)は1年になるが、同内閣は、啼
かず飛ばずの消極性、無為無策ぶりを発揮、
破防法また然りで、社会党側の唱える「左
翼的な政治上の実力行使と、右翼の暴力は
同一に論じるわけにいかぬ」といった、38
国会では、手前勝手の主張に引きずりまわ
され、不成立に終わったのである。
総裁・首相は派閥の中で、主流派の談合に
より決められているのが実状、14年この間
合従連衡が行われ、内閣は噴火山上に踊っ
ている。(以上児玉誉士夫自伝による。)
<田中角栄「闇将軍」>
<田中内閣(参議院選挙「10当7落」)>
角栄は昭和49(1974)年の参議院での大
勝をもくろみ、「10当7落」(10億円使え
ば当選7億円では落選)という金権物量選挙
を展開。しかし自民党は大敗。与野党伯仲
時代にはいる。三木武夫副総裁、福田赳夫
蔵相らが閣外へ去る。
昭和51(1976)年、田中角栄は、秘書・
榎本敏夫らとともに受託収賄罪、外為法違
反の疑いで逮捕される。三木内閣は総辞職
し、角栄は、保釈中ながら出馬し、トップ
当選を果たす。
第一次田中内閣(左から中曽根康弘・三木武夫・田中角栄・大平正芳)
<福田赳夫内閣>
田中内閣総辞職後、三木武夫内閣が発足
しロッキード事件が発覚。三木内閣は総
辞職し、福田赳夫内閣が発足。
福田赳夫は戦後の昭和電工事件で、日野
原社長が逮捕。このとき大蔵主計局長の
福田赳夫が収賄容疑で逮捕される。さら
に大野伴睦、来栖赳夫、西尾末広(副総
理)が逮捕される。このため芦田均内閣
は10月に総辞職し、民主自由党の吉田茂
内閣にかわる。その後芦田均(前首相)
も逮捕されることになる。結果、裁判で
は、来栖赳夫以外の政治家は全員無罪と
なる。
<大平正芳内閣(「角影内閣」)>
昭和53(1978)年。福田内閣総辞職、
角栄は大平正芳を強く支持し大平正芳
内閣が発足。「角影内閣」と称され、
金脈問題で首相を退陣した後は、「闇
将軍」とささやかれ、政界・財界に影
響を及ぼした。翌年第35回衆議員総選
挙で角栄はトップ当選(票数は前回より
2万7千減の14万票)し、自民党は大敗。
自民党の40日抗争。先の総選挙の結果を
受け、福田と三木が大平に退陣を要求し、
角栄は大平を支持する。
公判に出廷する田中角栄(昭和57年12月)
参考(メモ)
昭和元(1926) 年
昭和2(1927) 年 田中義一(内閣、昭和4没)
昭和3(1928) 年 久原房之介(鮎川義介)
昭和7(1932) 年 満州国(「弐キ参スケ」)
(東条英機・岸信介・鮎川義介他)
昭和16(1941)年 第二次世界大戦「開戦」
昭和20(1945)年 終戦「敗戦」
昭和21(1946)年 東京裁判
吉田茂(日本自由党総裁・内閣)
昭和23(1948)年 昭和電工事件(GHQ関与)
昭和23(1948)年 芦田内閣(1948.3-10)
吉田内閣(第2-3次・1952)
昭和25(1950)年 朝鮮戦争(~1953)
昭和26(1951)年 日米安保条約
昭和29(1954)年 吉田内閣(1948-1954)
自由民主党結成
鳩山一郎内閣(1954.12-1956)
昭和31(1956)年 石橋湛山内閣(1956-1957)
昭和32(1957)年 岸信介内閣(1957-1960)
昭和35(1960)年 日米安保条約(改定)
池田勇人内閣(1960-1964)
昭和39(1964)年 佐藤栄作内閣(1964-1972)
昭和47(1972)年 田中角栄内閣(1972-1974)
昭和49(1974)年 三木内閣
昭和51(1976)年 ロッキード事件、福田内閣
昭和53(1978)年 大平内閣
昭和55(1980)年 鈴木内閣
昭和57(1982)年 中曽根内閣
昭和62(1987)年 竹下内閣
平成 2(1990)年 角栄政界引退・越山会解散
平成 5(1993)年 細川連立内閣 角栄死去12.6
国会議事堂(永田町)・霞が関・丸の内・皇居
2022.8.22
2022.8.23