新年おめでとうございます。
大阪の船場には、少彦名神社があり、
今年の干支の金の寅が祀られている。
大阪(道修町)の少彦名神社
少彦名(すくなひこな)神社入口に
金色の虎の像がある。
「神農さん」とよばれていた少彦名
神社は道修町(どしょうまち)にあ
る。
薬種商を営む店は、中国から唐薬種
を輸入し、中国医療の祖・神農氏
の像や掛け軸を床の間に祀っていた。
コレラが大流行した200年前だった。
文政5(1822)年に、「虎面殺鬼雄
黄円」という疫病除薬の丸薬を無料
で配布し、人々は丸薬と張り子の虎
をもち神殿で祈願した。
その後京都の五條天満宮から少彦名
命を分霊し、神社には、神農氏と少
彦名命の2人の神様を祀っている。
少名彦神社(神農さん)<大阪府大阪市中央区道修町2-1-8>
谷崎潤一郎「春琴抄」
谷崎潤一郎
谷崎潤一郎(1886-1965)は幼少
の頃より成績優秀で、旧制一高入学
後校友会雑誌に小説を発表、東京帝
大在学中小説「刺青」を発表、関東
大震災後に関西に住み、『痴人の愛』
、『蓼喰ふ虫』、そして、昭和8(1
933)年に「春琴抄」を発表し、の
ち数多く映画化され、、山口百恵と
三浦友和主演の映画もある。(昭和
51年)
春琴抄(究極の愛)
大阪道修町の薬商の奉公人の丁稚
の佐助とこいさんの春琴。
幼い頃から佐助は春琴の身の回り
のすべてをまかせられる。
春琴が9歳のとき。佐助(13歳)
は、春琴の手をひき、10丁離
れた靭(うつぼ)の琴・三味線
の習いに通っていた。
春琴が20歳になる。父が亡くな
り、春琴は淀屋橋筋で若くして
師匠の看板をあげ、佐助は春琴
を「お師匠さま」と呼び、彼女
は「佐助」と見下していた。
春琴が37歳のときのある日だっ
た。何者かによって無残に高雅
な美貌に傷をつけられた。
涙をこぼしたことがない勝気な
春琴は、いずれ傷が癒えたら、
「お前だけにはみられとうない」
と佐助に言う。
そして、部屋を離れて春琴の部
屋に戻ってきた。両眼に針をさ
した佐助がいた。
春琴は「ほんとうの心内をよう
こそ察してくれた、佐助、痛く
なかったか」と。
これに佐助は「わたしは、この
上もなく仕合わせです」と。
その後の春琴と佐助。
春琴は長年の習慣ゆえ、佐助が
いないとどうにもならないと、
衣装の着付け、按摩、上厠、入
浴も佐助をわずらわす。
佐助は春琴の肉体のすみずみ、
巨細(こさい)を知りつくし、
夢想だもしない細やかな愛情が
かわされていたという。
新潮文庫「春琴抄」(昭和8年発表)
谷崎潤一郎と「春琴抄」
谷崎潤一郎は、29歳の時(大正4年・
1915年)に結婚し、8年後、10万
人以上の震災があった関東大震災の
時(1923年)、関西・神戸に移り
住む。
このとき、芥川龍之介を訪ねにきた
大阪の老舗の商人の妻・根津松子と
出会っている。
気品があり、綺麗な松子に恋焦がれ
た谷崎潤一郎。
彼女が住まいをかえると、近所に転
居するなどし、谷崎は、『一生、あ
なたさまにおつかえることを夢み、
我が身を滅ぼしても』と恋文を送る。
谷崎は「潤一郎」の代わり、従順の
「順市」の署名を使い、自分を船場
の奉公人・佐助に、松子を御寮人さ
ま・春琴にみたて、『生命身体等』
のすべてを『御寮人さま』にと手紙
に記す。
昭和8(1933)年に「春琴抄」を
世に発表した谷崎は、のちに離婚し
た森田松子と結婚する。(昭和10年)
道修町と「春琴抄」
大阪の道修町の少彦名神社に「春琴
抄の碑」があり、この碑から、「春
琴抄」を想像・創作したと浮かんで
くる。
「春琴抄の碑」による。
「菊原初子師は、谷崎邸へので稽古
に、父菊原琴治検校の手を引いて行
った。その父様のことが、作品に生
かされているという。当年百一歳、
地唄箏曲の人間国宝で、かつて一丁
北の伏見町から集英(現開平)小学
校に通った人である。」と記されて
いる。
『春琴抄』の結びの文は、「佐助が
自ら眼を突いた話を天龍寺の峩山和
尚が聞いて、転瞬の間に内外を断じ
醜を美に回した禅機を賞し達人の所
為に庶幾(ちか)しといった云うが
読者諸賢は首肯(しゅこう)せらる
るや否や」と記し物語は終わる。
「春琴抄」の舞台の道修町の少彦名神社
「春琴抄」の道修町の少彦名神社
谷崎潤一郎は、晩年に『鍵』、『瘋
癲老人日記』を発表、ノーベル文学賞
補に7回にわたり選ばれ、日本人で初
の米国文学芸術アカデミー名誉会員に
選出され、昭和40(1965)年7月30
日永眠、79歳。
少彦名神社(神農さん)の道修町は、
武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三
菱製薬などが本社を構え、薬問屋や
製薬会社が150軒ほどある。
2021.12.31