新年正月にお寺に詣でる人々には、

これまでを語る噺があるように、

そのお寺にも男と女の恋の物語がある。

 

<恋人の聖地「愛染堂」>

水間寺境内にある愛染堂の堂宇入り口

には、「恋人の聖地」の銅板があり、

横隣に「お夏清十郎の由来の石碑」、堂

宇前に「お夏清十郎の墓」がある。

 

 

「恋人の聖地」の水間寺愛染堂

 

<「お夏清十郎」>

「お夏清十郎」は、寛文2(1662)に播磨

姫路で、実際に起こった駆け落ち事件。

大きな旅籠屋の娘が手代の清十郎と駆け落ち

し、清十郎はかどわ(誘拐)しと店の金持ち

逃げの濡れ衣(罪)を着せられ打ち首となった。

このお夏清十郎の悲劇は、その後、各地で小

唄などに唄われ民衆のなかに浸透してゆく。

なかでも貞暦3(1686)年井原西鶴の浮世草

紙『好色五人女』の「姿姫路清十郎物語」と

宝永4(1707)年に近松門左衛門が脚色し人

形浄瑠璃に仕立てた「五十年忌歌念仏」は秀

作で、これ以降の書かれたものは、すべてこ

の2作を下敷きにしている。

<水間寺愛染堂「お夏清十郎由来の石碑」(伝説)>

愛染堂にある「お夏清十郎由来の石碑」に

よると、

「約700年前、伏見天皇の勅使御参侯の随身

に山名清十郎という美男子ありしが、当日勅

使饗応のために村下の豪農楠右衛門の娘、

お夏が出仕し、これまた鄙にまれな美女にて、

いつしか相い思いつつもその場は別れ、その

後、お夏は境内愛染明王に毎夜祈願致し、そ

の甲斐あってか間もなく南北朝の戦いが始ま

り、清十郎は先陣を承り、住吉渡辺橋に戦功

を立てしも、敗者の身となりしを聞き、お夏

は愛染橋の加護により、奇しくも住吉の松原

にて清十郎に巡り会い、水間に手に手を取っ

て帰り、仲睦まじく想いを遂げ、苔下の露と

消ゆと伝う。」とあり。

水間寺ホームペーでも、播州にもこれと同じ

伝説があると記されている。ちなみに播州で

は、姫路城の北東の慶雲寺(兵庫県姫路市野里)

に、刑死の墓が禁じられちた時勢で「せめてあ

の世で…」と、誰となく2つの石が置かれ、比

翼塚(墓)が祀られる。毎年8月9日には地元

の人によってお夏・清十郎祭りがおこなわれている。

 

<水間寺愛染堂「お夏清十郎の墓」(「松竹映画」)>

愛染堂前の「お夏清十郎の墓」の両脇に

林長次郎(右)と田中絹代(左)の名前

の刻印の石碑(昭和11年・1926年建立)がある。

 

 

「お夏清十郎の墓」の林長二郎(右側)と田中絹代(左)の石碑

 

愛染堂の林長二郎は芸名で彼の本名

は長谷川一夫(1908-1984)。

長谷川は、当初歌舞伎役者で、大阪松竹

社長白井松次郎に認められ、昭和2(19

27)年師の林長三郎の了解のもと時代劇

専門の松竹下賀茂撮影所に入社する。

昭和10(1935)年衣笠貞之助監督の「雪

之丞変化」で、林長二郎の人気は絶好調に達

し、翌年昭和11(1926)年に松竹映画「お

夏清十郎」を、田中絹代とふたりで共演する。

 

 

「お夏清十郎」の田中絹代と林長二郎(昭和11年・1936年)

 

<映画界(「松竹と東宝」)と林長二郎>

阪急の小林一三は昭和9(1934)年に東京

宝塚劇場(東宝)、さらに東宝映画ブロック

をつくる。映画「お夏清十郎」の翌年昭和12

東宝は松竹の林長二郎と入江たか子を引き

抜いた。長二郎の移籍の理由は、給料が

の人気スターの10分1(200円)の低さの

なか、冷たさを感じてか、東宝から15万円

支度金の移籍話をもちかけられ、東宝入りを

決める。

これに松竹側が猛反発し、移籍問題はこじれた。

長二郎は師・林長三郎から破門され、これより

本名の長谷川一夫を名乗る。

松竹は、東宝が放映する映画館には、一切、松

竹映画を配給しない強硬策に出る。昭和12年京

都撮影所で、その日の撮影を終えた長谷川一夫は、

暴漢に襲われる。頬に長さ10cmの2ヶ所に傷を

つけられ、彼の傷跡は事件以後も残る。

有罪になった逮捕の犯人のひとりに新興キネマ

(松竹系列会社)所員の笹井栄次郎がおり、当時

の新興キネマ撮影所長は永田雅一だった。

 

 

「長二郎斬られる」(朝日新聞1937.11.3)

 

<「お夏清十郎の墓」(林長二郎)>

水間寺愛染堂手前の「お夏清十郎の墓」建立

の年の翌年昭和13年に「生命の顔」に傷を負

う事件で、撮影中の「源九郎義経」は中止、

長谷川一夫の東宝第一作は「藤十郎の恋」(東宝

・1938年)となる。

<長谷川一夫と永田雅一>

事件から12年後昭和25(1950)年、長谷川

一夫は、永田雅一社長の大映に入社し、のち

彼は大映取締役になる。

長谷川一夫の息子が言うには、ふたりは、あの

事件のことで、釈明を求めたり、弁解もせず、

たがいに事件にふれなかったという。

長谷川一夫は、映画界引退前の昭和30(1955

)年から亡くなる前年まで東宝歌舞伎の座長を

勤める。

昭和59(1984)年4月6日76歳没、死後に俳

優として最初の国民栄誉賞を受賞する。

 

 

 

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