司馬遼太郎が書いた紀行文「オランダ紀行」を

読んでいて、歴史に精通した小説家ならではの

紀行文だと思った。そして、三谷幸喜の「風運児たち」

(「蘭学革命編」)を想い起こす。

 

<「タ―ヘルアナトミア」の訳業>

司馬遼太郎の「オランダ紀行(事はじめ)」による。

医者杉田玄白(1733-1813)は江戸詰の典医で、

オランダの解剖書(タ―ヘルアナトミア)を手に入れる

が、オランダ語がわからず、絵を見るしか仕方なかった。

明和8(1771)年3月4日玄白は町奉行の者に腑分(解剖)

の見学してもよい報せがあり医者仲間に手紙を出す。

報せをうけたなかに中津藩(大分県)江戸詰前野良沢

(1723ー1803)がおり、待ち合わせ場所に良沢が赴くと、

玄白、良沢は、偶然同じ本をもってきた。それは解剖図

がたくさん載っているドイツ人クルムスの蘭訳本だった。

前野良沢、中川順庵らは小塚原刑場で、刑死者の腑分

け(解剖)を見学し、解剖書の図番が精確であることを知

り、翻訳を決意する。前野良沢(1723ー1803)がかすか

にオランダ語を知っていることを頼りに辞書もなく、オラン

ダ通詞の助けもなく、まったくのてさぐりでの訳業だった。

一語知るのに1日以上かかったこともあり、そのくだりを

現代訳すると、「たとえば眉(ウエインブラーク)というのは、

目の上にはえた毛であるというだけの一句でも…日が暮

れるまで考えつめ、たがいににらみあって」いたというぐ

あいだった。訳業は1年10ヶ月かかり「解体新書」という

題で刊行(1774)される。ところで、翻訳中、指導的存在

であった前野良沢だけは、名をつらねることを辞退した

から、訳本のどこにも名がない。

 

 

ターヘル・アナトミア(解剖学表1734年)

 

<「オランダ紀行」と「風雲児たち」(蘭学革命編)>

後年杉田玄白は、蘭学草創期の史実を書き残すために

「蘭学事始」を記し、高弟の大槻玄沢に校訂させ文化12

(1815)年に「蘭学事始」を完成させる。

(「風雲児たち」ー蘭学革命編)

3年前2018年正月1日、三谷幸喜のテレビドラマ「風雲児たち」

を見た。「解体新書」に前野良沢の名がない理由を知ったスト

ーリであった。3年前のことゆえ、想像ふくめたなかで記すが、

前野良沢は完璧主義者で、十分訳しきれないと、「解体新書」

の刊行は時期尚早と反対する。一方杉田玄白は現実主義者で、

少しでも早く本にすると、そのぶんお金になるという。結局、紆余

曲折あるなか刊行することになった。その後、杉田玄白のお祝

いの会がもたれ、前野良沢が招かれることになった。杉田玄白

は、前野良沢のおかげで名声も地位も得たと感謝し、前野良沢

も世に本が出、役にたつことになったのは玄白のおかげだと感

謝の言葉を返し、ふたりは当時のことを想い、たがいに抱き合い

物語を結び、面白くて快い感じがした。

 

 

前野良沢(片岡愛之助)と杉田玄白(新納慎也)

 

<「オランダ紀行」(「蘭学事始」)>

司馬遼太郎の「オランダ紀行」に戻る。

玄白は晩年翻訳当時40余年前を回想し、「蘭学事始」で

「誠に艪舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出(い)だせしが

如く」と述べている。幕末、神田孝平は湯島の露店で「蘭

学事始」をみつけ、この本の内容を知った福沢諭吉は感

動し、明治2(1869)年に維新の騒然たる時期にこの本が

日本人の営み知る上での宝であるといい、自費で刊行する。

(「オランダ紀行」と「風雲児たち」)

「解体新書」には前野良沢の名が記されていなかったが、

「蘭学事始」によって、前野良沢の業績が世に知られること

になった。これをもとに三谷幸喜は「風雲児たち」をつくり、

司馬遼太郎は「オランダ紀行」に『かれ(前野良沢)は、みだ

りに名声を得ることはしないという旨の願を宇佐八幡に誓っ

たというのである。近代とは事実を事実としてうけいれる時

代というほか、定義はない。日本の近代は、こういうひとび

とによってはじめられたのである。』と書く。

 


解体新書(1774年刊行)

 

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