大河ドラマ「青天を衝け」で、父の血

を引き継いだ栄一がいた。

かつて思惑が外れたこともある栄一の

父が世を去り逝く。(明治4年・187

1年)

 

栄一の父・渋沢市郎右衛門

明治4.年に亡くなった栄一の父・渋

沢市郎右衛門。

栄一の父・元助は渋沢家のえいと結婚

し、渋沢家を継ぐ。

尾高家のやへは父・栄一の姉になる。

栄一(17歳)は、安政5(1858)年

尾高惇忠の妹の千代(18歳)と結婚

する。

栄一の父はこの結婚を急いだ。とこ

ろが思惑が外れることになった。

 

尾高(男)    

    ├────|―─尾高惇忠(新五郎)

|ー尾高やへ    |――尾高長七郎

|            |――尾高千代

|

|ー渋沢市郎右衛門

|    |―――――――渋沢栄一

|   えい

|

|―渋沢文平

    |―――――――渋沢喜作

   女

 

 

栄一と千代

父の思惑が外れたのは栄一の結婚。

結婚して子どもができれば、落ち着

くと思ったが、栄一は独身者のよう

に江戸と血洗島を往復し、尊王攘夷

思想にのめりこんでゆく。

 

文久3(1863)年に長女歌子が出

したのに、

高崎城襲撃計画をたてるが、これ

は千代の兄・長七郎が諫め中止と

なったが、この件で栄一は喜作と

京に逃げることになる。

ところで栄一が万一捕らえられた

ら、家族親族が罪を被り、重い刑

に処せられることになる。

このとき千代は

『潔く命を捨てようと思い定めて

いた。あなたは、明日お別れとい

う今日になっても、知らぬ顔を通

して心にもない慰めの言葉を口に

される。恨めしく思います』

という。

千代は農民の娘であったが、武士

の妻以上に武士の妻だった。

その後栄一は明治(1868)年12

月フランスから帰国し、血洗島に

戻るまで5年間でたった一度、慶応

元(1865)年に、一橋家の家臣と

中山道を通り京都にもどるとき、深

谷宿で、千代と2歳の歌子と面会し

ている。

あとは、いっさい家庭のことは千代

に任せきりだった。

栄一は農民の息子であったが、武士

以上に武士であった。

 

明治3(1870)年2月に次女・琴子、

明治4年には三女・糸子(早世)が

誕生する。

同年11月富岡製糸場事務主任となり、

翌明治4(1871)年井上馨と栄一は

銀行制度の創設草案を編纂中、同年

明治4年11月22日、父・市郎右衛門

が逝く。

 

父・市郎右衛門は、栄一が自慢の子

で、天子さまの寵臣になるとはだれ

が思ったかと、息子の栄一を誇りに

思い逝く。

 

渋沢栄一と大内くに

父亡きあと明治4年の暮れ。

栄一家族は東京の神田裏神保町の

600坪の元旗本屋敷に引っ越す。

翌年明治5年10月長男・篤二が誕

生し、渋沢一家は喜びに包まれる。

ところで、今の社会では考えられ

ないことだが、栄一は大阪から大

内くにと彼のあいだにできた娘・

文子を連れて現れ、新宅で、妻妾

同居の生活を始める。

 

時代と栄一・千代・大内くに

大阪から連れてきた大内くには、幕

末のとき高倉寿子(最高級の女官)

の女官となり、明治2年の東京遷都に

伴い京都から主人と一緒に東京に来

た経歴があるだけで、どのような

経緯で妻妾同居暮らしになったかわ

からない。

当時は、天皇はじめ、政府の役人な

どは、正妻(第一夫人)の管轄下に

あれば、暗黙のうちに容認されてい

た。

栄一や妻の千代には、儒教の戒律に

照らしても、妻妾同居する家庭生活

をためらうことはなかった時代であ

る。

翌年明治6年に大内くには二人目の

子・てるを神保町の屋敷で出産する。

ちなみに大内くにの長女文子は、尾

高次郎(尾高惇忠次男)と結婚。

二女・てる子は千代の姉の子の大川

平三郎(大川修三の次男)と結婚す

る。

 

 

前列左から大内くに、てい(栄一の妹)、千代(栄一の正妻)、尾高くに子(千代の妹)

 

渋沢栄一と儒教「明眸皓歯」

経済の分野において近代的な道徳

律の導入をはかった渋沢栄一は、

こと私生活に関するかぎり、前近代

的な家族システムをそのまま流用し

ていた。

後年渋沢は三女・愛子(後年の正妻

・兼子とのあいだの子)の娘婿とな

った明石照男に向かい

「明眸皓歯に関することを除いては、

俯仰天地に愧(は)じることなし」

と語ったという。

「明眸皓歯(めいぼうこうし)」は、

瞳が美しく、歯が白く綺麗な女性を

さし、「俯仰(ふぎょう)天地に愧

じず」は、何ら自分の行動にやまし

いところはないことで、要するに、

こと美人(女性)のことを除いて恥

ずべきことは何もないという。

 

栄一と渋沢千代

大正2年(1913)年。渋沢が74歳

のときだった。

長女・歌子の求めに応じ、懐剣と書

状の二品を納めた箱の蓋に書を書く。

箱の表に「夜寒のあと」と記し、裏

に和歌を記す。

消え残る露の玉つき(玉章)秋の霜

すきし夜寒のあとをこそ見れ 栄一

 

長女・歌子は言う。

父の壮年時代、今のような家庭尊重

という観念がなく、家も妻子もかえ

り見ることなく、時勢のなかで生き

た父もそのひとりだった、という。

家庭の人でなかったというと、非常

に冷淡に聞こえるが、父は愛情も温

情も非常に深いひとだった。

と、歌子は父のことを語る。

 

渋沢栄一と渋沢兼子

渋沢は生涯論語を愛し、論語の文献

を集め、購読会を開き、儒教論理を

説いていた。

二度目の正妻となった兼子は、妾宅

をもっていた栄一を評して

『お父さんも論語とはうまいものを

見つけなさったよ。あれが聖書だっ

たら、てんで守れっこないものね』

と言う。

キリスト教には、姦淫が禁じられて

いるが、論語には、女性に対する戒

めは無く、女性関係で脛にきずをも

つ渋沢だが、女子教育に熱心だった。

栄一は、女子大学創設にかかわり、

東京女学館長、日本女子大学長にな

り、講演で婦道説を語っていた

。このとき言葉弱く、

『わたくしのしたことは、論語の明

眸皓歯に関することを除いては俯仰

天地に恥じることは何ひとつない』

と、首をすくめて偽りなく言ってい

たところが渋沢栄一らしかった。

 

 

渋沢兼子

 

 

 

2021.7.2

渋沢栄一(「夜寒のあと」の渋沢兼子)ー男と女の物語(136)

2021.10.11

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