幕末の新選組。

新選組が京都で暗闘と粛清に明け暮れて

いる間に時勢は急激にかわる。

 

大政奉還により政権は将軍から天皇に移

り、2か月後朝廷は王政復古の大号令を

発する。

 

新選組と王政復古

新選組は、壬生、西本願寺、不動堂村と

屯所をかえ、5年を経たとき、慶応3(1

867年)12月に王政復古で天皇が政権を

にぎり、15代将軍慶喜に「辞官納地」を

じる。

翌日慶喜は軍事的接触を避け二条城から大

城に移る(12月12日)。

新選組は二条城の留守番役から、京の都か

伏見奉行所に移り、伏見の警備を

担う。(12月16日)

 

 

伏見奉行所跡(京都市伏見区西奉行町桃陵団地入口

 

新選組と戊辰戦争

慶応4(1868)年1月3日鳥羽街道で幕府

軍と薩摩軍が衝突し、鳥羽伏見の戦いが開

始される。

隊士を募り、総勢150余人の新選組の指揮

は、近藤にかわり土方歳三が指揮をとる。

 

隊長の近藤勇は、前年暮れに高台寺党生き

残りの篠原泰之進らに伏見で肩を狙撃され

その傷がいえていなかった。

 

戊辰戦争では新選組は新政府軍をめがけて

突入するが、銃火器を豊富に備えた洋式軍

隊に対し、味方の会津藩は甲冑、陣羽織で

大砲も1門あるだけだった。

 

伏見口激戦の戦い

 

 

伏見口の戦い激戦地跡(京都市伏見区寺田屋の船着き場・港の京橋)

 

 

 

翌4日未明、土方は大坂城への退却を命

じた。

ところが、将軍慶喜は会津藩主容保ら数

人を引き連れて海路で江戸に逃げ帰った

後で、近藤らも江戸に向かうしかなかっ

た。

鳥羽伏見の戦いで会津藩は朝敵となり、

新選組は佐幕派として官軍と戦うことに

なる。

 

 

 

勝沼の戦い

江戸に戻った新選組は117人に減っていた。

2月、慶喜が上野の寛永寺で謹慎生活に入

り、近藤は警護につく。

勝海舟は近藤に甲州進撃をたきつけ5000

両と大砲2門、小銃500挺を渡す。

3月新選組70余人を中核とする甲陽鎮撫隊

は、近藤、土方は郷里の多摩、日野での歓

待を受け、6日に勝沼に到着する。

 

すでに甲府城は新政府軍の板垣退助に接収

され、甲陽鎮撫隊は大善寺(山梨県甲州市

柏尾)に布陣するが、1200人もの板垣隊

の圧倒的な近代兵器の前に脱走者も相次ぎ、

近藤のもとを離れていった。

 

流山の戦い

近藤、土方らは、五兵衛維新田(東京都

足立区綾瀬)に移動し、幕府の御典医松

本良順の口利きで金子邸に投陣し、4月

1日に江戸の海舟の反対を無視し、下総

流山(千葉県流山市)に転陣し、味噌壌

造元の長岡屋に居を構える。

それから間もなく新政府は長岡屋を包囲

される。近藤は土方の制止を振り切り、

大久保大和と名乗り出頭するが、正体は

すぐにばれる。

 

近藤は板橋の東山道鎮撫総督府に、油小

路の変の生き残りで、近藤を銃撃した加

納鷲雄がいた。

慶応4(1868)年4月25日刑場となった

板橋の原っぱで近藤は斬首される。近藤

永眠享年35歳。

 

京都の三条大橋

 

 

鴨川の南側(三条大橋より見る)

 

江戸の板橋で斬首された近藤の首は、アル

コールにつけて京都に運ばれ、鴨川の三条

大橋の河原でさらし首となる。

 

 

 

その1ヶ月後、重い病で江戸で療養していた

沖田総司は息を引き取る。

近藤の助命嘆願のため江戸に走った土方歳三

は2人の遺志を蔵したまま、翌明治2年5月旧

幕軍の一員として会津、箱館へ転戦し、「退

く者は斬る」とわずかな兵を鼓舞し、銃弾に

倒れる。

 

 

 

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