幕末の京都。

かつて京都六条堀川にあった本圀寺。

本圀寺は信長が入洛のときに将軍の仮御所

となり、幕末では水戸藩が皇室の守衛や将

軍の補佐にあたるための屯所となる。

 

本圀寺

本圀寺は日蓮宗で、鎌倉から京都に移って

くる。

京都のこの地に光明天皇より日静が寺地を

賜ったことによる。(1346年)

 

 

堀川通り付近の本圀寺跡(堀川通り5丁目交差点北より南側)

 

織田信長と足利義昭

戦国動乱の京の都。13代足利義輝を討った

三好三人衆(三好長逸、岩城友道、三好宗

渭)は、松永久秀との主導権争いにより、

織田信長と足利義昭の上洛を阻めず、京都

から退去する。

同年永禄11(1568)年9月信長と足利義

昭が入京する。

信長は、14代将軍・足利義栄(義昭の従弟)

を廃し、奉公衆とともに仮御所としていた

足利義昭(のち15代)の本圀寺の警護を、

明智光秀を中心とする近江、若狭の国衆に

託し、信長は美濃に帰る。(10月26日)

 

本圀寺の変

翌年永禄12(1569)年1月5日手薄になっ

た畿内の織田勢に乗じ、本圀寺が襲われる。

足利義昭を討つために、信長に敗れていた

斎藤龍興らが三好三人衆に加勢し、本圀寺

を襲撃する。

明智光秀らの足利義昭方は、本圀寺に立て

こもり奮戦する。翌日、急報を聞き細川藤

孝、三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田

勝正、荒木村重らが畿内各地から織田勢援

軍に駆け付け、桂川河畔で合戦があり、優

勢となった足利・織田方の勝利に終わり、

なお続く戦国の時代。

 

水戸光圀と本圀寺

本圀寺の寺領を安堵した将軍徳川家康。

水戸藩二代藩主水戸光圀は生母の追善供養

を本圀寺でおこない、光圀から圀の一字を

もらい、本国寺から本圀寺にかわる。

本圀寺は、幕府が招いた朝鮮通信使一行約

400名の定宿となり、京都所司代は将軍の

名代として挨拶に伺い、寛永13(1636)

年以来7回の饗宴を催す。

光圀は「大日本史」編纂事業を始め、光圀

死後も水戸藩の事業として明治中頃まで継

続される。

 

 

本圀寺跡の史跡

 

本圀寺事件

京の本圀寺は、天明8(1788)年の大火で

罹災するが再建される。

水戸藩は「大日本史」編集の史料を集める

ために、京都にも多数の藩士をおき、御所

蛤門前の水戸藩邸を拠点とし、借用資料の

筆写を藩邸で行った。

「大日本史」は将軍が天皇にかわり、士農

工商の秩序を守り、尊王と征夷を主張し、

南朝を正統としている。

幕末に幕府擁護の水戸学が、尊王攘夷運動

の思想となり、諸国の藩内でも公武合体派

と尊王攘夷派でも対立し、政権をめぐり政

局が混沌とし急変してゆく。

幕末の水戸藩では、尊王攘夷と佐幕とに藩

論が分かれ、尊王攘夷運動の先駆けとなっ

た井伊直弼の暗殺があり、慶喜のとき天狗

党の乱を起こすことになる。

文久3(1863)年。

将軍家茂が二条城に入城、孝明天皇が石清

水八幡宮に攘夷祈願、長州藩が下関を通行

する米、仏、蘭の艦船を砲撃、そして薩英

戦争が勃発するなか、本圀寺事件が起こる。

同年8月17日鳥取藩士22名は知恩院塔頭良

正院から本圀寺に向かい、天誅と称して鳥

取藩重臣3名を惨殺する。鳥取藩の藩主・

池田慶徳は水戸藩主水戸斉昭の子で、兄の

慶喜はのちの15代征夷大将軍で、「大日本

史」編纂の水戸藩出身である。

同月翌8月18日に八月十八日の政変が起こ

る。

 

 

文久2(1863)年京絵図大全

 

8月18日の政変後。

公武合体派による政変で、長州藩はじめ尊

攘派の公卿は京都か追放される。

以後水戸藩主・慶篤に率いられた水戸藩の

尊王派藩士が本圀寺に駐屯し、皇室の守衛

や最後の将軍慶喜の補佐にあたる。

本圀寺事件の暗殺者の内5名は3年後に被害

者の遺族に仇討される。また、鳥取藩は、

戊辰戦争で新政府方につき旧幕府と戦う。

 

 

 

 

本圀寺は約50年前まで本圀寺の変の位置

にあったが、本寺・末寺解体による借財

で荒廃し、山科に移る。(昭和46年・1971年)

 

 

 

 

 

2021.6.16

明治天皇と崇徳帝遷都ー直島と白峯神宮ー新京都物語(268)

2021.7.5

幕末の水戸藩(京都の水戸藩邸)ー新京都物語(269)