京都御所の南、鴨川に架かる三条

大橋。

河原での太閤秀吉の関白一族の処

刑に始まり、幕末では三条大橋に

まつわる事件が起こる。

 

鴨川に架かる三条大橋

 

 

三条大橋

 

三条大橋と角倉了以(高瀬川)

三条大橋の西側に高瀬川がある。

ときの関白・豊臣秀次(秀吉の

姉の長男)は叔父・秀吉に突然

謀反の疑いありと、高野山で切

腹を命じられる。

 

同年文禄4(1595年)8月に秀

次(1568-1595)の正妻・

側女・子どもら30余名が三条

大橋河原の中州で処刑される。

 

この頃の河原は現在の河原町ま

で広がり、角倉了以が高瀬川を

開削したとき、16年後に処せら

れた秀次一族の遺体が出てき、

中州の塚の地に遺体を祀るために

、建てられたのが瑞泉寺である。

 

 

瑞泉寺

 

秀吉(聚楽第)と天皇

秀吉(1537-1598)は九州平定後

に聚楽第を建立し、秀吉が奏上した

後陽成天皇(16歳)が聚楽第を天正

16(1558)年4月14日に行幸し、

5日間滞在の間、秀吉が、天皇を立会

人とし、家康以下6名の上級公家、長

宗我部元親23名の武家殿上人が起請文

を提出、関白に違背しないことを誓わ

せる。

秀吉は、公卿・近衛前久の猶子となり、

近衛前久の娘・前子を天皇に嫁がせ、

秀吉は天皇の后の兄となる。

次の天皇は秀吉の孫となり、秀吉は天

皇家と縁戚関係になる。

天正16(1558)年には茶々を側室に

迎え、茶々は仇敵の関白の側室となり

、子どもを生み正室おねにかわり大阪

城を居とし淀殿と呼ばれる。

そして秀吉は秀次一族処刑のときに関

白邸宅の聚楽第をすべて破壊し更地に

する。

 

三条大橋と足利三代木像梟首事件

 

 

三条大橋西詰(手前南側)

 

文久3(1863)年2月家茂警護のた

め山岡鉄舟(28歳)らが浪士組を率

いて京に入京する。

その前日2月22日。

京都の等持院に安置されていた室町

幕府将軍・足利尊氏、2代・義詮、

3代・義満の木像の首と位牌が持ち

出されたうえ、正当な皇統に対する

逆賊とする罪状が掲げられ、賀茂川

の三条河原に晒される事件が起こる。

 

 

盗まれた足利3代将軍の木像の首(札に「鎌倉以来の逆臣」)

 

時勢は奏勅攘夷のなか、木像梟首

(きょうしゅ)事件の犯人は、平

田篤胤親子の門人で、植田直助ら

をはじめとする富商、農民、医師、

浪士ら十数人であった。

従来の天誅は開国派や公武合体派

の個人を狙ったものであったが、

この事件は将軍の木像を斬首する

ことで、倒幕の意味をもつものと

して警戒され、京都守護職の松平

容保は犯人の全員逮捕を命じ、4

月に犯人らは逮捕され8月に処刑

される。

以後松平容保は壬生浪士(後の新

選組)を京の警護・治安の任にあ

たらせる。

 

 

鴨川の南側(三条大橋より)

 

同年文久3(1863)年

三条大橋の西詰(北側)に制札場

があった。

禁門の変(元治元年7月・1864年

)後に長州藩の罪状を記した制札が

三度にわたり抜き取られ破棄される

事件が起こった。

このため、新選組は、京都守護職よ

り制札の監視を命じられ、新選組が

警備にあたっていたところ、土佐藩

士8人が三条大橋西詰に出現し、引

き抜く動きを見せて新選組は3人を

捕らえる。

参戦した隊士に原田左之助の20両

を筆頭に、会津藩から恩賞が与えら

れる。

 

 

文久改正新増細見京絵図大全 (文久2年・1862年)

 

 

 

 

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