動乱の幕末、政治の舞台は江戸から京に
移り、京と大坂の往来するものが多くな
る幕末の大坂。
勝海舟は大坂城近くに海軍塾を開き、こ
こを居としていた。
淡路町3丁目(大阪の御堂筋交差点)
勝海舟と「海防意見書」
勝海舟(1823-1899)。
海舟は旗本・勝家の長男として江戸の本所亀
沢町(現墨田区両国)で誕生。
嘉永6(1853)年ペリーが浦賀に来航し、幕
府は今後の対外政策を募り、700通以上応募
するなか海舟(30歳)の江戸湾台場の防備、
軍艦の建設、身分にを問わず有能な人材登用
など「海防意見書」(5ヶ条)を提出する。
これに老中・阿部正弘、大久
保一翁(いちおう)が感服し、勝(32歳)は
下田取締掛手付に登用され、翻訳の仕事を任
せられる。
安政2(1865)年大久保一翁に随行し伊勢・
大坂方面を視察し、長崎の海軍伝習生に選ば
れる。
長崎伝習所・薩摩藩
安政2(1855)年長崎の出島近くに海軍伝習
所が開かれる。幕府は優秀な幕臣や藩士を集
め、オランダ海軍軍人を講師として招聘する。
伝習生生徒監を任じられた勝は、当時旗本だ
った榎本武揚(たけあき)や薩摩藩士五代友
厚らとともにオランダ船を使い航海術を学ぶ。
安政5(1858)年勝は練習艦・咸臨丸を使い、
薩摩藩主島津斉彬と会見する。
斉彬は側近の西郷に「幕臣にも人あり」とい
う。同年井伊直弼が大老に就任、斉彬急死、
安政の大獄が始まる。翌年安政6年海舟は江戸
・軍艦操練所の教授方頭取に登用される。
<咸臨丸(「アメリカ」>
安政7(1860)年日米修好通商条約の批准
の使節を乗せたポーハタン号の護衛艦とし
て咸臨丸が浦賀を出航(1月17日)。
咸臨丸(艦長・勝37歳)には軍艦奉行木村
喜毅以下90名の日本人と10名のアメリカ水
夫が乗船。
2月26日サンフランシスコに到着。一行は滞
在期間中病院、消防署、造船所などを視察。
なかでも男性が女性を優先するレディーファ
ーストの習慣に驚いたという。
3月19日帰途につき5月6日無事品川に着き、
3か月以上に及ぶ太平洋横断の旅を終える。
安政から万延に改元され桜田門外の変が起
こる。
勝海舟「大坂海軍塾」
坂本龍馬が土佐藩から脱藩後文久2(1862)
年に、勝海舟の門下生になり、一橋慶喜は将
軍後見職となる。
アメリカ航海中、海舟は幕府批判をし帰国後
海軍からはずされ、閑職に追いやられる。
文久3(1863)年神戸海軍操練所の設置を
将軍・徳川家茂に直訴して認められる。
同年文久3年勝海舟は大阪城の近く北鍋屋町
(現淡路町3丁目)を居とし海軍塾を開く。
北鍋屋町専稱寺(現淡路町3丁目・御霊神社東・①印)
現在「淡路町3丁目」のもとは「北鍋屋町」
といい、この地にかつて専稱寺があった。
海舟はここを居とし海軍塾を開き、坂本
龍馬は文久3年に訪ねている。
「海舟日記」には「坂本、新宮、京□より
来る」(3月1日)、「専稱寺旅宿に入る」
(9月9日)とあり。
また幕臣・杉浦梅潭の日記に「勝麟太郎旅
宿 北鍋屋町 専正寺」とある。
海舟は、『日本の海軍 一大共有の海局』を
目指し、佐藤与之助を塾頭として、私塾「
大坂海軍塾」を専稱寺で開く
。塾生には、坂本龍馬をはじめ、望月亀弥
太、高松太郎、千屋虎之助らが航海術を学
ぶ。
元治元(1865)年摂海警備と軍艦奉行の
勝海舟。将軍・徳川家茂に熟練した軍艦乗
組員の必要性を説き、神戸に海軍塾と海軍
操練所が設立される(5月)。
のち池田屋事件、禁門の変が起こり、四国
艦隊下関砲撃事件が起き、第一長州征伐が
おこなわれる。このとき勝海舟は大坂(旅
宿専稱寺)で、西郷隆盛と初会談する(9
月14日)。西郷は勝海舟から「国内で争
っているときではない」という見識に感服。
10月、征長軍参謀に任命された西郷は、征
長総督徳川慶勝と面談し、長州処分の一任
をとりつけ、寛大な策で収捨をはかる。
勝海舟の寓居・海軍塾跡(工事中のビル・左)
勝海舟(41歳)は海軍操練所の人材を
主義・主張を問わず登用し幕府の反感
を買い、6か月後には軍艦奉行を罷免
となり、海軍操練所も閉鎖となる。失
脚した海舟はさらに自宅での蟄居を命じ
られる。
勝海舟寓居(海軍塾)跡説明板
参考
文久2(1862)年
慶喜、開国説を説く(松平慶永らと対立)
文久3(1863)年
尾高惇忠や渋沢喜作らと横浜焼き討ち
攘夷計画を立てる。(10月中止)
将軍・家茂が二条城に入城(3月4日)。
4月孝明天皇が攘夷祈願のため石清水八幡
宮に行幸、
5月薩英戦争(英国に敗れる)
天誅組の乱(大和五條で挙兵8.17)
8月18日の政変、七卿落ち(8.19)
公武合体派が京都から攘夷派公卿・
長州勢力を追放
元治元(1864)年
6月5日池田屋事件
6月16日平岡円四郎暗殺される。
7月11日佐久間象山暗殺される。
7月19日禁門の変。長州征伐(第一次)。
9月14日勝海舟、西郷隆盛と初会談する(大坂)。
(文久4(1864)年2月20日に年号を
「元治」に改元し、元治2(1865)年
4月7日「慶応」に改する。)
勝海舟その後
勝海舟「日本の危機を救わねば」の思いが、
官軍総司令官・西郷隆盛を動かし、江戸城
総攻撃の中止が決定し、一滴の血も流さず、
江戸城は新政府に譲渡される。(1868年)
晩年に、勝海舟は「氷川清話」を発表し、
その談話や批評が人気を博する(1897年.74歳)。
暗殺の危機は20回におよんだという海舟、
臨終の最後の言葉が「これでおしまい」で
あった。享年76歳(明治32年.1899年)
2021.4.22
<幕末>
幕末の京都(長州藩「屋敷跡・法雲寺」)ー新京都物語(257)
2021.5.14