皆さん、こんばんは!
kazuです。
2017年8月17日に左腎臓摘出手術をしてから、まる2年が経過しました。
1年前にはこんな記事を書きました。
当然ですが、手術をしてからの1年間は肺に転移したがんの薬物治療(キイトルーダとインライタ併用の治験)を開始したり、単身赴任先から転勤して仕事に復帰したりと、癌に罹患する前の環境から大きく変わりました。
しかし、その後ここ1年間は薬物治療も落ち着き、副作用もコントロールして仕事も普通にこなし、穏やかな生活を送ることができました!
・・・
と、まとめたかったのですが、そうは問屋が卸してくれませんでした。
今年1月に突然の痙攣発作&左半身の麻痺による救急搬送!
残念ながら、医薬の専門家であることから、この症状は何らかの原因で脳に重大な障害が起きていることが分かりました。
そして、「何らかの原因」が恐らく脳卒中ではないかということも。
そして、人生で初めて「このまま死ぬかも」と思った時でした。(詳細は、過去ブログを参照)
幸い(なのか!?)なことに、原因は脳卒中ではありませんでした。
しかし、原因は「腎臓がんの脳転移」という、新たな問題が発覚しました。
その後の経過は、今年1月~2月にかけて「緊急入院・・・」のタイトルでブログに書いた通り、放射線治療(サイバーナイフ)を行いました。
まだ経過観察中ではあるものの、今のところ脳の腫瘍は縮小しており、仕事も復帰してボチボチ生活しております。
これから1年後、つまり手術から3年後の未来ブログには
「穏やかな1年間でした!」
と書きたいのですが、実は波乱の1年になることは残念ながら予定済み
何故なら、今の治験は12月で一旦終了となり、今のキイトルーダ&インライタの処方は強制終了となるため!
当然、次に何らかの薬に変薬しなければなりませんが、治験コーディネーターからは一応インライタ単独処方で治験は1年程?継続する予定とのこと。
何れにしても、「変薬」という大きな動きがあるので、穏やかな1年にはならないでしょう・・・
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さて、(既に日付は変わりましたが)今日(8月18日)、お盆期間ということで両親に会いに行きました。
(妻・子供はそれぞれ用事があるため、私一人で出かけました)
自宅からは電車で1時間程なので、めちゃくちゃ近い距離ではありますが、普段はなかなかいかない実家。
数カ月ぶりに両親と昼食・夕食を共にしました!
その両親との会話の中で、ふと気が付いたことがあります。
タイトルにもなっている、「自分の精神の支えになっている根源とは?」という点です。
自分が前向きに治療に取り組んでいける理由として、以前もブログに書いた通り、1つは医薬知識に明るいこと。
そしてもう一つは元々の性格によるものという話をしました。
性格についても(プロのスポーツ選手がやっている様に)、自分の精神をコントロールすることでネガティブな考えをポジティブな方向に切り替えていくことは決して不可能ではないと書いた記憶がありますが、実は私自身はそういった精神コントロールをしなくても、元々ポジティブな思考の持ち主でした。
何故か?
それは、生まれつきの性格もあるとは思いますが、それ以上に子供の頃の育った環境から形成される部分も大きいと(個人的には)考えています。
その環境という点で、ふと自分の性格形成に大きな影響を与えているのでは?と思ったのが今日の両親との会話。
具体的には、ちょうど終戦の日の直後ということで、両親の戦争体験の話になりました。
両親曰く、母親は小学校1年生、父親は小学校3年生で終戦を迎えたとのこと(きちんと計算していないので、若干ずれる可能性はありますが、まあ大体そんなもの)
そして、(私が子供の時にも聞かされましたが)戦時中の話が凄まじいものでした。
父親は東京の南北千住、母親は神奈川の相模湖の傍に住んでいました。
父親は東京の空襲の経験者であり、南千住に住んでいた時に空襲で母親・幼い妹と一緒に焼夷弾が降り注ぐ中、逃げさまよったとのこと。
当時の下町である南千住は、平地のため防空壕というものが無かったそうで、非難するために市役所の地下に逃げ込んだそうです。
そこまで逃げる時のこと。
南千住の町は焼夷弾で7~8割くらいが焼き尽くされ、逃げ戸惑う道には死体がゴロゴロあったそうです。
そして、背後からは焼夷弾で燃えている建物の火の粉が襲ってきて、死体を横目に火の粉を振り払いながら必死に逃げて何とか市役所の地下まで逃げ込むことが出来たそうです。
その光景は、結婚してからも夢として何度も出てきたそうです。
その後、国の方針で子供たちは強制的に福島の郡山へ集団疎開となったそうですが、電車に乗るために上野まで行く道の途中でも、放置された死体が至るところにあったそうです。
母親の住んでいた場所は比較的田舎だったので直接空襲に遭ったことは無いそうですが、相模湖にかかる橋を戦闘機が銃撃で落とそうとして、もの凄い轟音で皆で怯えながら防空壕に避難したり、また東京大空襲の時は、夜中なのに夕焼けの様に東京方面の空が燃え盛る炎でオレンジ色に染まっていた、という話を聞きました。
子供の時にもこの様な話を聞かされていたのですが、(私以外に)父親の様な経験をした親がいる方は、私以上の年齢で且つ(空襲で狙われる様な)都市に住んでいた方であり、戦後74年経過した今ではかなり数は少ないのでは?と思います。
以前のブログで、多くの方は癌になって初めて「死」をリアルに意識するが、自分は小さい頃から「死」とは何かを考えて意識していたため、癌になってショックは受けたが、死ぬことに対する恐怖は癌になって急に湧き出た訳ではなく、小さい頃から「死」に対する覚悟みたいなものはあったと書きました。
この様な意識の基となったのは、恐らく父親の戦争体験ではないか?
と、今日両親と話をしていて、ふと思ったのでした。
たぶん、先の戦争体験が本や映画などで知ったのなら、「ふ~ん」程度の意識で終わったと思います。
しかし、自分が子供の時に、自分の父親が自分と同じ年齢の時に焼夷弾から逃げまとい、目の前で人が死に、自分もいつ死んでもおかしくない状況・・・。
それを自分の姿として重ねることで、今戦争もなく、普通に学校に行って勉強して、友達と遊ぶことが何て幸せなことなんだ!と。
私が子供の頃はまだ戦後から30数年しか経過しておらず、それこそ今自分が歩いている道は、30数年前には焼夷弾が落ちて、多くの死体が放置されていた・・・
今から思うと、まだ終戦から日が浅かったので、戦争で亡くなった何百万人という屍の上で今の平和が成り立っているということを、子供ながらに実感していました。
でも、戦争から既に74年を経過した(私の子供を含めた)今の若い世代では、いくら口で言っても、もうそれは頭で表面上は理解は出来ても、深層心理として精神に深く根付くことはもう出来ないのではと思います。
何故なら、自分、或いは親など身近な人が経験してしないことは、なかなかリアルに認識することが出来ないから。
戦争を知らない子供達。
それは「平和」で素晴らしいことですが、戦争を「知らない」のでなく、
「忘れて」しまって再び愚かな戦争を引き起こすことだけは決して無い様に願うばかりです。
話は戻りますが、今の自分がステージ4の癌という状況。
普通の人なら「絶望」とか「悲観」とかが頭によぎる状況だと思います。(ある意味、それは人として正常な反応)
しかし、自分の場合は既に「絶望」とか「悲観」の状況の比較対象が、先の
「焼夷弾が飛び交う火の海の街を逃げまとい、目の前で多くの人が死んでいく中を生きるために必死に走っている状況」
そんな状況と、今の平和な世の中で最新の治療を受けている状況を比べたら、「絶望」とか「悲観」や死に対する恐怖など比べ物にならない。
なので、自分は癌に罹患しても死の恐怖というものは殆ど認識しない・・・
でも、これは決して良いことだとも思わないし、他の人に真似出来ることでもない。
自分の意識と同じレベルになるということは、すなわちそれは深層心理としての戦争体験を意味すること。
つまり、今突然ミサイルの嵐が日本を覆い、多くの人が焼け死に、食料も無く、当然癌の治療を受けるどころの話ではない、という状況をリアルに(又はそれに近い状況を)体験することを意味します。
当然、癌に対する死への恐怖は和らぐが、すなわちそれは他の要因での死への恐怖が強まるに他ならないこと。
人間で有る以上、本質的に死への恐怖は変わらないので、今癌の治療に対する死への恐怖が薄いということは、既に死への恐怖の代償を味わっているに他ならないため。
私は幼い頃に死への恐怖を味わってしまったのですが、本来ならこんなの死ぬ直前まで知らない方が良いに決まっています(^^ゞ
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なんかいつもに増して、まとまりのない話になってしまいました
何れにしても手術した日と終戦の日が近いことから、今後の日本の世の中も、またステージ4の癌の自分の状況も、何れも死を意識することなく平和で穏やかな日々が続いて欲しいと願っています。