祈りの里~聖人コルベが残したもの | Kazmarのブログ

Kazmarのブログ

ブログの説明を入力します。

カトリック教会において聖人とされた偉人が建立した教会が日本にあるのをご存じだろうか。

 

長崎市街から少し離れた山の中腹にその教会は位置している。聖母の騎士本河内教会がそれだ。市街の喧騒から離れた場所に佇む静寂な祈りの空間である。この教会はポーランド人の神父マキシミリアノ・マリア・コルベによって昭和9年(1934年)に設立された。

コルベ神父の本名はライムンド・コルベと言い1894年に帝政ロシアの衛星国であったポーランドのズドニスカ・ヴォラで生まれている。母親からはムンチオという愛称で呼ばれていた。ライムンドが10歳の時に聖母の前で「自分は大きくなったらどのような人間になるのでしょうか」と尋ねた時に、白い王冠と赤い王冠を持った聖母が目の前に現れ、白い王冠は純潔を意味し、赤い王冠は殉教を意味する。どちらを選ぶかと尋ねたそうである。ライムンドはその時両方を選んだ。ライムンドの初聖体験である。この事を聞いた母親はムンチオが将来キリスト教へ命を捧げる運命にあると悟ったと言われている。

 

その後ライムンドはフランシスコ修道会に入会し、マキシミリア之・マリア・コルベと名乗ることになる。その後ローマの修道院にて修行し、1917年に同志と共に汚れなき聖母の騎士会を設立、1922年には無原罪の聖母の騎士という雑誌を出版する。コルベの布教活動は、これより出版が主体となって行く。

布教活動の拡大のためにワルシャワ近郊のニエポカラノフの地をドウルッキ・ルベッキ侯爵より寄贈されて1927年にニエポカラノフ修道院を設立し布教活動に力を入れる。

 

コルベは汚れなき聖母の騎士会の活動を海外へ拡大することとし、その候補地として日本の長崎を選んだ。1930年にゼノ修道士、ヒラリオ修道士と共に長崎の地を踏む。長崎の大浦に仮修道院を営んだ彼らは日本語が全くできなかったにもかかわらず来日後1ヶ月で無原罪の聖母の騎士誌の第1号を1万部出版している。

翌年1931年には現在地に土地を取得し、聖母の騎士修道院を設立した。(教会の設立は1934年)。彼らの出版による布教活動は順調であった。1936年ニエポカラノフ修道院の院長に再び就くために彼は日本での布教を同志たちに委ね故郷へと帰っていった。帰国に際し同志たちに自身の死が近いことを晩餐の席で告げている。

ニエポカラノフに戻った彼が直面したのはソヴィエトとナチスドイツの圧迫である。そしてナチスは1939年にポーランドを占領することになった。その年の9月にはナチスにより逮捕されるが12月には釈放されている。その後ポーランド語版のみの出版活動を続けるが、その内容がナチスを刺激し1941年に再び逮捕され、オシヴェンチムへ収容された。16670番というのが収容された彼の番号だ。オシヴェンチムとはポーランド語であり、ドイツ語ではアウシュヴィッツと呼ばれている。

1941年7月にアウシュヴィッツにて脱走があった。当時のナチス支配下に置いては脱走が起った場合、収容者を10組のグループに分けてそのグループから無作為に一人づつを選び出し飢餓刑にすることが行われていた。コルベのグループではポーランド軍の軍曹であったフランツェク・ガイオニチェクが選ばれた。彼はその時に、絶望の声で妻子の名前を叫んだ。その際コルベは一歩前に踏み出し官吏に自分が身代わりになることを告げた。

 

刑に処せられた2週間後まだ4人の命があったがその中でコルベだけが意識がはっきりしていたと言われている。その彼にフェノールが注射された。1941年8月14日のことであった。そしてライムンド・コルベは47歳の生涯を終えた。

 

アウシュヴィッツに収容中コルベ神父は収容者たちを励まし、力づけたようだ。また彼により刑を免れたガイオニチェクは終戦後解放され1995年まで生きた。彼の後半生はコルベ神父の偉業を伝えるために費やされた。

 

母親マリアンナ・コルベはその時も存命で、ライムンドの死の数か月前にニエポカラノフ修道院宛にマクシミリアノがその霊魂を聖なるものにするのに必要なことを願い、神の栄光のためにもっともよいことを願いなさいという、内なる声が聞こえたと書いている。マリアンナは1946年3月17日にクラノフの街頭で倒れ息を引き取る際「ああ、私の息子よ」とつぶやいたそうである。

マクシミリアノ・マリア・コルベは1971年パウロ6世により列福され1982年教皇ヨハネ・パウロ2世により列聖された。その一年前パウロ2世はコルベが設立した聖母の騎士教会を訪問している。

コルベと共に来日したゼノ修道士は戦時中熊本の収容所に収監されるが、戦後すぐに戦災孤児たちのための救済活動を行っている。大きなカバンを持って戦災孤児の慈善活動を行った彼はゼノ神父と慕われた。「ゼノ死ぬ暇ないね」というのが彼の口癖であった。体調を崩して東京のベトレヘム病院で入院生活をおくっていたゼノ修道士を来日したポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世が訪問したのは1981年2月のことだ。ゼノ神父は1982年4月24日に同病院にて死去し、府中のカトリック墓地に埋葬された。

 

私はゼノ修道士とは面識がある。中学校に入ってバレーボール部に所属していたのだが、いつまでたっても一年生はコートの外での球拾いに業を煮やして友人らと退部して一時帰宅部になっていた時だ。聖母の騎士教会は私の下校時のルートにあたる。教会のすぐ下に腰かけるにはちょうど良い石垣があるのだが、帰宅時によくゼノさんが赤い顔の大きな体で腰かけていた。何度か通るうちに彼と親しくなった。何を話したのかは覚えていないが大きなカバンからお菓子や、会報を取り出して渡してくれた。たどたどしい日本語で優しく話しかける姿が印象的だった。ちょうど桜田淳子が青い鳥を歌っていたころだ。ゼノさんとは少なくない回数話したと思う。そのうち帰宅部ではなくなってゼノさんと会うことがなくなってしまった。

今回長崎に帰ってきて一番訪れたかった場所が聖母の騎士教会だった。昔の様にゼノさんが腰かけていた場所を歩くと、私の中にくっくくっく~青いと~り~♪という歌が流れてきて思わず涙ぐんでしまった。

 

教会から5分ほど登ったところに静寂な森に囲まれたルルドがある。時は流れ親しかった人がいなくなっても変らない場所がここにはあった。

宗教の役割というものは信教により心の安らぎ、幸福感をもたらす以外にも、近世までの識字率が低かった世界においては倫理観を学ぶ手段でもあり、この世界について哲学的な考察を行う手段でもあった。

 

科学的知識が普及した現代社会において宗教の存在が揺らぎ始め、個人主義の台頭により自己優先が一般的となり他社優先の思想である博愛主義というものが絶滅危惧種のレッドリストになってしまい宗教自体が希薄なものとなってしまった。

 

また一部の新興宗教に代表されるような現世利益を謳い文句にした信者に対しての苛酷な寄付の強制も宗教の存在を危うくしている。

AIによる管理社会が訪れるのも時間の問題だ。現在の所AIが意識を持つ、シンギュラリティが訪れるのはまだ先の話だと考えられている。意識を持つとは人間と同じように倫理観を持って判断できるという意味だ。そのような段階でAIによる社会管理が進み、自己中心的な指導者が最終的な判断を行うことになれば、人類に待ち受けているのは悲劇的な結末になるかもしれない。

 

そのような事態を防ぐためにはキリスト教や仏教のような博愛主義、神道のような万物に感謝する考え方を現代風にアップデートして普及させることも一つの手段ではないだろうか。

殉教とは現代のわれわれはかわいそうな被害者の行動と受け取っているが決してそうではない。自身の大切に思うもののために自身の命を捧げて、自己の魂を昇華させるという崇高な行動である。

 

本河内教会は白い聖堂だ。派手なステンドグラスなどはなく、仏教寺院のようなきらびやかで壮厳な空間というよりは、伊勢神宮のような簡素で静謐な空間である。しかしここには神の王国を信奉してその一生を捧げた人たちの凛とした思いが宿っている。

 

ここはヴァチカンによって聖人に列せられた聖者が作った祝福された空間だ。ここを訪れる人たちの心に、その凛とした思いという何かが伝わってくるのではないだろうか。