第18章 平成7年 思い出深き特急「白山」~上野から信州を経て金沢まで走り通した6時間の旅路~ | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:特急「白山」、夜行高速バス「エトアール」号、特急「ひたち」】


 

金沢行き特急「白山」は、定刻8時30分に上野駅16番線を発車した。

 

転轍機をガチャガチャと鳴らしながら進路を見定め、ようやく速度を上げた時には、左手に鴬谷駅のホームが見え始めていた。

高架で1番線から12番線、地平の頭端式ホームが13番線から16番線まで、広大な敷地を抱く巨大駅の最も東寄りのホームを発車して、西から5本目の東北本線の下り線を走るのだから、本調子になるまで前奏部分が長いのはやむを得ない。

鶯谷駅と「白山」の間に割り込むように、地下から出てきた東北新幹線の線路が更に持ち上がって、窓には高架の柱しか映らなくなる。



僕が最も頻回に利用した長距離列車は、故郷の長野へ向かう特急「あさま」だと思うのだが、同じく巨大ターミナルである東京駅や新宿駅を発つ特急列車とは、ひと味異なる独特の滑り出しだった。

沿線には、上野公園や谷中の墓地、飛鳥山など桜の名所が少なくないが、まだ開花には程遠い、平成7年3月中旬の週末である。

 

心地よく律動的に線路の継ぎ目を刻む車輪の音色が、不意に轟々とうるさくなれば、列車は荒川の鉄橋を渡り始め、日常を払い除けたような爽快感が込み上げてくる。

 

『お待たせを致しました。上野8時30分発、特別急行「白山」号金沢行きです。本日はJRを御利用下さいましてありがとうございます。御案内致します車掌は、私、JR西日本金沢車掌区の〇〇、△△、□□、◇◇の4名が、終点金沢まで乗務致しますので、よろしくお願いします』

 

車掌の案内放送が始まった。

 

『列車は9両で運転しています。後ろの方から1号車、2号車、3号車の順で、先頭は9号車です。後ろ1号車から7号車までが指定席、そのうち4号車がグリーン車です。4号車はグリーン車の指定席、自由席の方は前の8号車と9号車、前2両です。後ろの1号車と先頭9号車は禁煙車です。後ろの1号車から4号車、先頭の9号車は禁煙車になっておりますので、禁煙に御協力下さい。6号車にはラウンジがございます。食堂車はございません。車内での飲み物、雑貨品などの販売がございます。販売員は準備が終わり次第、車内にお伺い致します。お弁当の車内販売は、高崎から先の区間です。高崎までは、車内でお弁当の販売はございません。車掌室は、中程グリーン車の4号車、そして後ろ1号車です』

 

昔の白山は12両編成だったよなあ、とか、食堂車は繋がってないけれどもラウンジとはどのような造りなのか、とか、高崎で積んでくるお弁当は「だるま弁当」なのかな、などと、聞きながら様々な想像が湧き上がって来る内容である。

 

 

『次の停車は、大宮です。大宮8時51分、深谷9時21分、高崎9時40分、横川10時ちょうど、軽井沢10時22分、中軽井沢10時22分、小諸10時41分、上田10時53分、戸倉11時03分、長野は11時18分。長野到着は11時18分でございます。長野を出ますと黒姫11時45分、妙高高原11時53分、新井12時11分、高田12時20分、直江津12時30分、直江津は12時30分です。直江津では列車の進行方向が変わりまして北陸線に入って参ります。直江津を出ますと、糸魚川13時02分、泊13時21分、黒部13時32分、魚津13時37分、滑川13時44分、富山は13時55分、富山13時55分の到着です。高岡14時07分、石動14時18分、津幡14時27分、終点金沢14時36分。終点金沢には午後2時36分の到着です』

 

金沢まで遠路469.5km、25駅に停車して、6時間06分に及ぶ長い汽車旅に、改めて心が引き締まる。

大宮駅までの21分間で案内が終わるのか、と心配になるほどの停車駅数であり、「白山」も様変わりしたものだと思う。

そもそも、かつて上野を発つ特急列車は上野と大宮の間を25分程度で走っていたので、いつの間に4分も縮めたのだろう、と首を傾げた。

上野から大宮まで20分の新幹線に匹敵する速さではないか。

 

 

上野と金沢を信越本線経由で結ぶ直通列車の歴史は、大正11年に運転を開始した夜行急行772・773列車に遡る。

当時の所要時間は、下り列車が13時間25分、上りが13時間45分であった。

昭和14年に信越本線と北陸本線回りの上野-大阪間急行601・602列車が運転を開始し、太平洋戦争中の昭和18年に772・773列車が廃止されたものの、昭和19年に廃止されている。

 

終戦後も、上野発着北陸方面の列車はなかなか復活せず、昭和23年から運転されていた上野-直江津間の昼行準急列車を、昭和29年に急行に格上げして金沢まで延伸し、「白山」と命名したのが最初であった。

昭和34年には上野-金沢間に夜行の臨時急行「黒部」が加わり、2年後に定期化される。

 

 

昭和36年に、上野から信越本線・北陸本線経由で大阪まで足を伸ばす特急「白鳥」が、キハ82系特急用気動車を用いて運転を開始した。

「白鳥」は、僕の故郷信州を通る初めての特急列車であったが、昭和40年に「白鳥」は上野-金沢間「はくたか」と大阪-金沢間「雷鳥」の2つに分割され、「白鳥」の名は併結されていた青森-大阪編成が受け継ぐことになる。

 

同年に、上野と福井を結ぶ夜行急行「越前」が運転を開始、昭和44年に特急「はくたか」は電車化されて上越線経由に変更された。

 

 

昭和47年に急行「白山」が特急に格上げされて、3年間途絶えていた信越本線経由の上野-北陸間直通特急列車が復活し、同じ年に2往復、昭和48年に3往復へと増発されている。

1日3往復が運転されていたこの時代が、特急「白山」の絶頂期であった。

羽田-小松間の航空路線が存在していたとは言え、半世紀前は東京と北陸の間は6時間が当たり前という時代だった。

 

昭和57年の上越新幹線開業と昭和60年の上野駅延伸に伴い、長岡駅で上越新幹線から特急列車に乗り換える方法が主流となって、「白山」は2往復に減らされ、平成4年に1往復になる。

平成5年には夜行急行「越前」が廃止され、代わりに、「白山」に使われている特急用車両を間合い運用する夜行急行「能登」が、上野-金沢間で運転を開始した。

 

そして、長野新幹線の開業と信越本線横川-軽井沢間の廃止に伴い、平成9年9月30日、特急「白山」は半世紀に及ぶ歴史の幕を閉じた。

 

平成27年の北陸新幹線金沢延伸の際に「白山」の愛称が復活してほしかったのだが、「かがやき」と「はくたか」が採用された。

北陸新幹線は長野経由なのだから、伝統に則れば「白山」が順当ではないか、と言いたかったが、「かがやき」も「はくたか」も上越新幹線の接続特急として「白山」廃止後も親しまれていたので、やむを得ないのだろう。

 

 

僕が上野から「白山」で旅立った平成7年は、平成10年開催の長野冬季五輪を見据えた長野新幹線の工事が佳境を迎えた時期だった。

 

1日3往復時代の「白山」の停車駅は、上野を出てから、大宮、高崎、横川、軽井沢、小諸、戸倉、上田、長野、妙高高原、高田、直江津、糸魚川、魚津、富山、高岡、金沢の16駅で、小諸や戸倉を通過する列車もあった。

ちなみに急行時代の「白山」の停車駅は、上野、赤羽、大宮、熊谷、高崎、横川、軽井沢、小諸、上田、戸倉、長野、黒姫、田口(現・妙高高原)、新井、高田、直江津、糸魚川、泊、黒部、魚津、滑川、富山、高岡、石動、金沢となっていて、平成時代の特急「白山」と似通っている。

特急が増発されて急行が減っていく世の中で、特急の停車駅が急行並みに増やされるのは珍しいことではないが、それでいて、最盛期の特急「白山」の所要は6時間50分で、停車駅が多い平成の「白山」の方が50分も早いのだから、不思議な話である。

 

大正時代の772・773列車は倍以上の時間をかけていたのだから、50分程度の差に目くじらを立てるのも、さもしい話であるし、今回の僕の「白山」紀行は、時間の長短など問題ではない。

俗世間における用事の類いは全て片づけて来たし、「白山」に乗りたくて出掛けてきたのだから、なまじ楽しい時間を急いで終わらせるのは勿体ない、と思っている。

 

 

『時間の都合その他で乗車券、特急券まだお買い求めでないお客様、また、お手持ちの乗車券、特急券で変更などされるお客様、車掌まで早めにお知らせ下さい。時折り、車内で盗難事故が発生することがございますので、お手持ちの財布、お荷物、貴重品などにはくれぐれも御用心いただきますよう、お荷物の方は目の届くところに置き、財布や貴重品は必ず身体につけて御旅行下さい。また、各車のデッキに屑物入れが備えてございますので、弁当の食べ殻、その他屑物が出ましたら、デッキの屑物入れにお入れいただきますよう、車内の美化にも御協力お願いします。今日は御乗車いただきありがとうございます。特別急行「白山」号金沢行きです。次は大宮に停車します』

 

車掌の案内が無事に終了し、大宮を出て高崎線に入ると、背の高い建物が減り、住宅ばかりが途切れることなく沿線に連なっている。

平行する関越自動車道ならば、練馬ICを過ぎると程なく田園が左右に広がるが、高崎線の沿線はいつまでも街並みが途切れない。

特急「あさま」で故郷と東京を行き来した時も、欠伸が連発する区間であった。

 

熊谷を過ぎると、長閑な田畑が目立つものの、だからといって面白味が増す訳ではない。

視線を遠方に転じて、秩父山系や赤城連峰をぼんやり眺めているのが、高崎線の汽車旅である。

 

 

この辺りまで来ると、内田百閒が「雪中新潟阿房列車」で上野発新潟行き急行「越路」に乗車した際の描写が思い浮かぶ。

 

『遠景を屏風のように仕切った山山の頂は、所所雪をかぶっているだけで、黒い山肌が青空に食い込んでいる。

その山の姿がおかしい。

見馴れない目には無気味に見える。

熊谷、高崎辺りの景色を眺めていたら、少し寒気がする様な気持になった。

ごつごつしていて、隣り同志に列んだ山に構わず、自分勝手の形を押し通そうとしている。

尖ったの、そいだ様なの、瘤があるの、峯が傾いたの、要するに景色と云う様なものではない。

巨大な醜態が空の限りを取り巻いている』

 

関東平野の西辺を成す山々の容姿が奇怪であるのは間違いないが、そこまでおっしゃいますか、と苦笑いが浮かんでくる物言いで、いつまでも心に残っているのだから、百閒先生の話術に嵌ったのかもしれない。

 

 

高崎駅でひと休みした後に、信越本線に進路を転じた「白山」は、少しばかり鄙びた乗り心地になって、榛名山と妙義山の間に入り込んでいく。

 

この付近で目立つのは、安中駅の近くにある東邦亜鉛安中製錬所であろう。

亜鉛・カドミウム・機器部品などを生産する安中製錬所が操業を開始したのは昭和12年のことで、夜行急行772・773列車が行き交っていた時代であるが、今のように武骨な配管などが露出したおどろおどろしい外観になったのは、いつからであろうか。

初めて長野から東京に旅行したのは、上野動物園のパンダを家族で観に行った小学3年生の頃だったが、上り特急「あさま」の窓ごしに、小高い丘の斜面を覆い尽くす安中製錬所が現れると、途徹もなく恐ろしいものを見たような気がしたものだった。

さすがに今は怖くないけれど、こちらこそまさに「巨大な醜態」で、信越本線に入ったのだな、と実感する。

 

やがて平地が先細りにすぼまって来て、碓氷川に沿う緩やかな勾配が始まる。

左右から寄せてくる山々で空が狭くなる頃に、「白山」は、群馬県と長野県を隔てる碓氷峠の麓の横川駅に到着した。

 

 

明治26年に信越本線が全線開通してちょうど1世紀、中途で新線に切り替わっても、車両技術が発達しても、66.7‰の急勾配を通過する列車に、必ず補助機関車の連結が必要であることに変わりはなかった。

 

碓氷峠の補機専用に開発されたEF63型電気機関車が、構内に何両もたむろしているのは、幼少時から見慣れた光景である。

運転台でくつろいでいたり、機関車の周りで談笑している機関士の姿を見ながら、峠を登り下りする人生を思う。

 

『横川です。ここで機関車連結のため5分停車します。発車は10時05分です』

 

放送を聞き流しながら、昼食にはまだ早いけれども、名物の「峠の釜めし」でも買おうかと、僕は腰を上げた。

車外に出ると、関東平野の生暖かい空気の余韻と、信州から吹き下ろしてくる冷たい風が入り混じった奇妙な感触がある。

ホームに「峠の釜めし」の売り子がずらりと並び、乗客が群がっている。

 

 

陶器に入った釜飯の、ずしりとした重みと温かみを掌に感じながら、列車の最後部に歩を進めると、電動機の重々しい轟音を響かせて、2両のF63型電気機関車が近づいてくるところだった。

旗を振る作業員の誘導で停止と徐行を繰り返しながら、鈍い金属音とともに連結器が押し込まれ、「白山」の車体がかすかに震えた。

 

太古は海中にあったこの一帯が、700万年前の噴火活動で流出した溶岩で平地になり、30万年前に霧積川に侵食されて急峻な崖が形成されたのが、碓氷峠の成り立ちであるという。

横川の標高が387m、峠の最高点が956m、軽井沢は標高939mであり、直線距離で10km程度の間に標高差が600m以上に達する片勾配となっているので、中途にトンネルを設けられる両勾配の峠と異なり、この落差を登り切らなければ信州に行けないのである。

 

 

坂東と信濃国を繋ぐ道として古くから往来があり、「日本書紀」には、日本武尊が坂東平定から帰還する際に、碓氷坂で亡き妻を偲んで「吾妻はや」と詠った場面が描かれている。

東国を指す「あずま」の言葉は、碓氷峠で生まれたのである。

 

古墳時代の東山道は、碓氷峠の南に位置する入山峠を通ったものと推定されているが、飛鳥時代から奈良時代にかけての東山道は碓氷峠を通っていて、平安時代には関所も置かれている。

江戸時代に、五街道の1つとして整備された中山道も碓氷峠を通り、峠の麓に坂本関が置かれ、峠の両端に坂本宿と軽井沢宿が設けられた。

碓氷峠を避け、高崎の手前の本庄で中山道と分かれて、藤岡、富岡、下仁田を経由し、現在の和美峠付近にあたる鰐坂峠を経て信州に入り、追分宿で本道と合流する街道もあり、「姫街道」「女街道」と呼ばれたが、難所としては五十歩百歩だったという。

 

 

明治11年の北陸巡幸でも、明治天皇は徒歩で碓氷峠を越えざるを得なかったのだが、明治19年に馬や車で通行が可能な新道が作られ、これが現在の国道18号線旧道にあたり、信州側で軽井沢宿と沓掛宿の間で従来の中山道と合流している。

今の「旧軽井沢」と呼ばれる地区は中山道の旧道に沿い、軽井沢駅周辺は明治期に開発された新道に近い。

 

僕は、旧軽井沢の町並みを抜けて、碓氷峠の頂点と言われる熊野神社まで行ったことがある。

車の通れる舗装道路が行き止まりになっていて、その先は、いきなり急峻な斜面を覆う藪の中の細道に変わっている様子を見て、昔の街道とはこの程度のものだったのか、と目を見張った。

 

 

鉄道では、上野-横川間が明治18年に、軽井沢-直江津間が明治21年に開通したが、明治21年に碓氷馬車鉄道が国道上に敷設されただけで、輸送量が少なく、峠越えに2時間半も費やす有様だった。

 

信越本線の建設にあたって、勾配が比較的緩やかな和美峠のルートも提案されたものの、資材や人員の運搬コストを低減できる中山道沿いの碓氷峠に決定したことで、最大66.7‰という急勾配が生じ、ドイツのハルツ山鉄道を参考にしたアプト式ラックレールが採用された。

延長11.2 kmの区間に18の橋梁と26のトンネルが設けられ、明治26年4月1日に横川-軽井沢間が開通したが、連続する登り勾配のトンネルで機関士や乗客が煤煙に巻かれる被害が続出し、明治45年に我が国で初めての幹線電化が施され、碓氷峠の所要時間は電化前が80分、電化後は40分に半減したのである。

 

「鉄道唱歌」で、碓氷峠は以下のように歌われている。

 

これより音に聞きいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけて下り登る 仕掛は外にたぐいなし

くぐるトンネル二十六 灯し火うすく昼暗し いずれは天地打ち晴れて 顔吹く風の心地よさ

 

長野県歌「信濃の国」でも、

 

吾妻はやとし 日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道

 

と取り上げられている。

 

横川駅にあるアプト時代の補助機関車だったEC40型電気機関車のレリーフには、「刻苦70年」と書かれていると言う。

 

 

太平洋戦争後に交通量が増えると、まずは、カーブが184ヶ所もある国道18号線が需要に対して限界を来たし、昭和46年に入山峠を通る古東山道のルートを使って、碓氷バイパスが完成する。

 

鉄道でも、昭和38年に旧線の北側を並行するルートで新線が開通、所要時間は峠を登る列車が17分、下る列車で24分まで短縮されたものの、EF63型補助機関車を全ての列車が連結する必要があった。

補機は登り勾配で列車を押し上げ、下る列車では発電ブレーキによる制動の役割を担うために、必ず横川側に連結される。

機関士も常に横川を向く運転台に座り、軽井沢へ向かう列車では、列車の先頭にいる運転士と交信しながら後ろ向きで運転し、制動が効かず下り坂を暴走する事態に備えたのである。

 

横川-軽井沢間の所要時間が、登るよりも下る方が長くなっているのも、その表れと言えるだろう。

「均衡速度は時速48km」との言葉が横川機関区にある。

碓氷峠の急勾配を下る場合、EF63型電気機関車の高性能をもってしても、時速48kmに至ると制動力と加速力が均衡し、それを超えてしまえば、摩擦力が減少して加速があらゆる制動を上回り、逸走が止められなくなるのだという。

登りの列車は時速60km程度まで出すことがあるが、勾配を下る列車は時速38kmに厳しく制限されている。

 

 

横川駅での「白山」とEF63型電気機関車の連結作業を眺めながら、幼い頃に乗った特急「あさま」や「白山」、急行「信州」が横川と軽井沢に停車するたびに、客室を飛び出し、EF63型機関車の連結や切り離し作業を夢中で見入ったことを、懐かしく思い出した。

故郷と東京を行き来するのは大ごとなのだ、と畏怖が半分、誇らしさ半分という心持ちだった。

その都度、「ケチョケチョするんじゃない」と親に怒られたのだが、親の口癖だったケチョケチョとは、何処の言葉だったのか、ネットで調べても判然とせず、未だに謎である。

 

ホームに整列して最敬礼する売り子に見送られ、「白山」が横川駅を発車すると、すぐに急勾配が始まる。

それまでの軽快な走りっぷりとは打って代わって、砂利道を走る車のような、ゴツゴツと硬い乗り心地になる。

勾配の途中で制動をかける場合や、傾斜角度の変化による車輪の浮き上がりと脱線を防ぐために、車両が跳ねないよう、全車両の台車の空気バネの空気を抜いてしまうのである。

そのからくりを知った時には、そのようなことまでしなければ越えられない峠なのか、と驚愕した。

 

 

通常の電車や気動車は、機関車に連結された場合は無動力で牽引されるだけなので、EF63型電気機関車が連結できる車両数は、電車が最大8両、気動車は7両である。

キハ82系特急用ディーゼル車両を用いた「白鳥」や、181系特急用電車を投入した初期の「あさま」も制限を受け、当時の特急としては珍しく「あさま」には食堂車が連結されなかった。

 

EF63型機関車と連動する駆動装置を持ち、台車や連結器、非常用ブレーキの強化などに加えて、空気バネ台車のパンク機能を備えた「横軽対策」が施された急行用169系、直流特急用189系、そして交直流特急用489系が開発され、最大12両編成の電車が碓氷峠を行き来できるようになったのである。

 

首都圏と信州や北陸を結ぶ使命を果たすべく、1世紀以上に渡って碓氷峠の苛烈な輸送業務に従事した鉄道員のことを思うと、胸が熱くなる。

 

「やはり社会的な使命感が支えだったんでしょうね。機関区員も、保線も、信号系統も、駅も、みんな頑張っていましたよ。たんに給料を貰えばいいという考えではだめでしょうね。国鉄というのは、金もうけ仕事では割り切れやしませんよ。大袈裟なものじゃないが、みんな胸のうちに社会に対する使命感を持っていた。そこから使命感も生まれたんですな」

 

作家の橋本克彦氏が、国鉄分割民営化直後にEF63型の元機関士にインタビューした時の言葉が忘れられない(「鉄道員物語」所収「峠と機関車」より)。

 

 

この旅の2年後に迫った長野新幹線の開業には、信州人として多大な期待を寄せていたのだが、新幹線と言えども、この峠を越えることが出来るのか、と心配だった。

 

事実、群馬と長野県境を従来の新幹線規格である12‰で建設するためには、70kmもの迂回が想定されたと聞く。

高崎と長野を最短で結ぶルートとして、碓氷峠の北にある鳥居峠を経由する長野原ルートが俎上にのぼったが、活火山である白根山にトンネルを穿つことは不可能だった。

高崎駅から松井田駅の上空を高架で通過し、入山峠と内山峠の間にある物見山にトンネルを掘り、佐久へ抜ける南回りのルートも検討されたが、それでは年間80万人もの観光客が訪れる軽井沢を経由できない。

 

結局、信越本線の北側を山伝いに30‰の勾配で迂回して適度に高度を稼ぎながら碓氷峠の頂上に達するルートが採用され、平成9年に開通した長野新幹線は、勾配の途中の安中榛名駅から軽井沢駅まで、時速210kmを保ちながら10分とかからず走り抜く。

 

 

長野新幹線に投入されたE2系車両の主電動機の出力は300kWで、我が国で初めて時速300km運転を実現した東海道・山陽新幹線500系や700系車両の275kWを上回り、最新型のN700系の305kWに匹敵する。

数十キロに及ぶ下り勾配でも、電動車での抑速回生ブレーキを使用することで安定した走行を可能とし、1編成あたり6両の電動車のうち3両が回生失効状態に陥った時には非常ブレーキが作動、仮に全ての動力が回生失効になっても空気ブレーキのみで停止できるという、まるで「横軽対策」を彷彿とさせる性能と安全性を保持している。

 

長野新幹線開業4年前の平成5年には、上信越自動車道が、鰐坂峠の南を回り込んで八風山にトンネルを設けるルートで開通した。

 

鉄道と車が、そろって長年の難所だった上信国境を克服できたのは、ひとえに我が国の技術力の進歩と言えるだろう。

一方で、信越本線の碓氷峠区間が、施設の維持に多額の費用が掛かるためバス転換を余儀なくされたのは、碓氷峠が残した最後の負の遺産であった。

 

 

列車はのろいし、振動が背骨に響くほど乗り心地も悪いけれども、最後部の機関車の運転台で、後ろを向いて制動レバーを握り締めている機関士の緊張感を、ふと思い遣った。

文字通り、長大な列車を背負っているような重圧なのではないだろうか。

通過する人間の心境など知らぬげに、出でてはくぐるトンネルの合間から見下ろす碓氷川の渓谷や、折り重なる山肌の新緑が目に優しい春の峠だった。

 

車窓に目を遣りながら、温かみを残す「峠の釜めし」の蓋を開けば、利尻昆布と秘伝の出汁で炊きあげた醤油風味の炊き込み御飯に鶏肉、牛蒡、椎茸、筍、グリーンピース、栗、うずらの卵、杏といった具材がこんもりと盛りつけられ、別容器に茄子や胡瓜、梅干、山葵漬けなどの漬け物も添えられている。

どれから箸をつけようか、と迷いながら頬張るのは、至福の時である。

 

家族旅行で東京に行った帰路や、東京から帰省する際には、必ず「峠の釜めし」を購入したものだったが、お土産として持ち帰って自宅で食べるばかりだったので、いつも冷えていた。

冷めても美味しいと僕は思っているのだが、こうして温かいうちに食べたのは初めてかもしれない。

 

 

釜飯もいいけれど、食堂車で食事をしたかったな、と思う。

 

僕が鉄道ファンになった10歳前後の頃、特急「白山」は、長野駅を出入りする列車の中で、唯一、食堂車が連結されていた。

それだけで、「白山」が格上の列車に感じられたものである。

 

僕が最も「白山」を利用したのは1日3往復の時代で、育った街である長野市と、生まれた土地である金沢市の行き来であり、信州生まれで金沢の大学を卒業した父に連れられての家族旅行だった。

父と母は金沢で結婚し、僕と弟が生まれ、僕が3歳の時に長野市へ引っ越したのだが、その時も急行時代の「白山」を利用した白黒写真が残されている。

おそらく、僕が生まれて初めて利用した列車が、「白山」だったのではないだろうか。

 

 

特急「白山」の家族旅行で、僕は初めて食堂車を体験している。

昭和60年に「白山」が3往復から2往復に削減された際に、食堂車は廃止された。

全国で長距離列車の食堂車が次々と廃止される趨勢にあって、「白山」の食堂車は、我が国の電車特急で最後まで残されていたのだから、もって冥すべし、とも思うけれど、懐かしい思い出が消えるのは、やはり寂しい。

 

軽井沢駅で補機を外し、身軽になった「白山」は、再び快速を取り戻して信濃路をひた走る。

軽井沢から小諸にかけても案外の下り坂で、車内に響いてくる走行音は踊っているかのように軽やかだった。

 

右手を流れる白樺の木々の合間に、流麗な浅間山が全貌を現した。

何度も信越本線を使っているのに、不思議と浅間山をはっきりと拝んだ記憶がない。

天候の問題かもしれないが、線路際に木立ちや建物が多いことも一因であろう。

後に開通した上信越道には、正面から右手にかけて延々と浅間山を一望する区間があるが、往復4車線の高速道路と線路では、敷地面積が全く違う。

それだけ、家々を立ち退かせたり森林を伐採して高速道路が造られている証左であると考えれば、浅間山の眺望の見事さに喜んでばかりもいられない、と思ったりする。

 

 

軽井沢から先の信越本線は、馴染みである。

千曲川が刻んだ河岸段丘に開けた小諸の街を過ぎ、右手から国道18号線が近づいてくると、更に懐かしさが増す。

子供の頃、日曜日になると、決まって父がドライブに連れ出してくれ、国道18号線を上田や小諸まで足を伸ばすことが多かった。

大学に入った夏休みや春休みには、長野市内の運送業者の運転助手のバイトを勤め、西上田駅の近くのSB食品の工場に出荷するカップラーメンを積みに通ったこともある。


上田駅を過ぎ、家々や雑木林ごしに見えていた国道が線路際に寄り添うと、北国街道の風情を残す町並みや、カーブの曲がり具合、坂城から戸倉上山田温泉にかけて両側に迫ってくる山々の形など、車で走っているかのような錯覚に陥ってしまう。

 

 

長野電鉄河東線の古びたホームがある屋代駅を過ぎ、千曲川を南岸から北岸に渡ると、「白山」は善光寺平に飛び出した。

信越本線は長野盆地の西の縁に敷かれているので、篠ノ井線と合流する篠ノ井駅を通過すると、右手に住宅が林立する斜面が続き、左手には、完成間近の長野新幹線の高架の橋脚が見え隠れする。

善光寺の門前町として開けた長野市街そのものが、盆地の隅っこに片寄っているのである。

 

『御乗車お疲れさまでした。あと4分で長野に着きます。お出口は左側、1番乗り場です。長野でお降りになるお客様はお忘れ物、落し物などございませんよう、お支度をしてお待ち下さい。乗り換えの御案内を致します。松本、塩尻方面へお越しの方、快速「みすず」号天竜峡行き、11時22分、4分の待ち合わせですので、階段を上がって5番乗り場へお越し下さい。その後、特急「ワイドビューしなの」12号名古屋行き、11時48分、6番乗り場です。長野を出ますと、次は黒姫です。北長野、三才、豊野方面の各駅へお越しの方、普通列車直江津行き、11時49分、3番乗り場です。飯山線へお越しの方、戸狩野沢温泉行き、11時56分、同じく3番乗り場です。長野電鉄、信州中野、湯田中方面へお越しの方、改札を出まして駅前の地下乗り場へお越し下さい。長野の発車は11時20分です。今日もJR線を御利用下さいましてありがとうございました。長野に着きます』

 

 

千曲川の支流である犀川の橋梁を渡るあたりで、金沢を7時44分に出てきた上り「白山」とすれ違う頃に車掌の案内放送が流れ、上野駅から2時間48分が経過した11時18分、「白山」は長野駅に滑り込んだ。

 

ざわざわと3分の2以上の乗客が席を立ち、賑やかだった車内が一挙に閑散として、仕切り直しのような雰囲気であるが、僕は腰を上げなかった。

駅から徒歩で10分ほどの実家に1人で住んでいる母の顔が、ちらりと脳裏に浮かんだけれども、この日の僕の汽車旅は、帰省ではない。

 

これまで、「白山」を上野から金沢まで乗り通した経験がなかった。

今回の旅で特急「白山」の全区間を走破すると決めていたから、長野で降りる訳にはいかない。

母には親不孝ばかりしているな、と後ろめたさが込み上げてくる。

 

金沢の大学を出て、そのまま住みついてしまった弟には会うつもりだが、数日前の電話では、

 

「お久しぶり。元気?」

『うん、まあまあ』

「良かった。今度の土曜日金沢に行くからさ、一緒に夕飯でも食べないか」

『何時頃?』

「着くのが午後3時くらいだから、5時頃でどう?」

『小松に着くの?空港まで迎えに行こうか?』

「いや、いい。駅で落ち合おうよ」

『分かった。気をつけて』

 

と、これだけの会話を交わしただけである。

 

弟は徹底した車派で、何処へ行くにも自分でハンドルを握る。

さすがに東京へ出る時に車は使わないらしいが、それでも航空機である。

「白山」など思いも寄らないのだろう。

 

2分停車で、「白山」はそそくさと長野駅を後にした。

母には会えないけれど、長野から先の「白山」の行程には、家族の思い出がたっぷりと詰め込まれている。

北長野駅や三才駅を吹き飛ばすような勢いで通過し、郊外のリンゴ畑の中を走っているだけでも、何かの拍子に、父と母、弟が一緒に乗っているかのような甘酸っぱい気持ちになる。

4人向かい合わせにした座席で、僕と弟は窓際に坐らせて貰ったのだが、どちらが進行方向を向くのか喧嘩した記憶に苦笑したりする。

 

 

飯山線を分岐する豊野駅を過ぎると、「白山」は左に大きく弧を描きながら、信越国境の山越えに挑んでいく。

牟礼駅の手前で左から山肌が近づき、窓の外は鬱蒼と生い繁る木々に覆われてしまう。

右は鳥居川が刻む山峡で、対岸に連なる山々の中腹を巻く国道18号線が並走する。

 

線路が単線で急曲線が多いために、ここの「白山」は速度が上げられず、国道を行き交う車に抜かれるばかりの情けない走りっぷりである。

飯縄、黒姫と連なる山々も、手前の尾根に遮られて拝むことができない。

 

古間駅を過ぎると少しばかり平地が広がって黒姫山が顔を覗かせ、日陰に雪を残した田圃の中に集落が身を寄せ合っている。

信越本線は国道18号線と絡み合いながらも、前者の沿線は田畑が開け、後者には家々がひしめいている場所が多く、全く異なる土地のようである。

子供の頃に幾度か訪れた野尻湖も、国道18号線では湖面をちらりと覗くことができるけれども、信越本線はかなり離れている。

 

 

長野と新潟の県境は碓氷峠と同様に片勾配で、信濃町野尻地区の標高が788m、麓の妙高高原町関川地区の標高が644mであるから、150mの落差がある。

国道18号線は九十九折りの山道で真っ直ぐ降りていき、豪雪地帯でもあるため、冬には肝を冷やす区間だが、信越本線は緩やかなカーブで大回りしているので、それほどの険しさは感じられない。


昭和53年5月18日に、妙高高原駅と関山駅の間の白田切川に土石流が発生し、川を暗渠にしていた築堤が崩壊したために、白田切川橋梁を新設して前後の線形も改良したので、殊更に滑らかな線形に感じられる。

 

 

僕は災害の前も後も信越国境を通ったことがあるのだが、旧線のことはよく覚えていない。

 

妙高山を車窓から眺めると、初めて買って貰ったカメラを「白山」の窓から妙高山に向け、父や母に笑われながら、流し撮りを試みた子供の頃を思い出す。

デジタルカメラではないので、現像に出さなければ出来映えは分からなかったが、手前を流れるススキの向こうに、流麗な妙高の山容がブレずに写っている写真を手にした時には、得意になったものだった。

 

 

新井駅から先は頸城平野が開け、猫の額のような狭隘な平地ばかりの山国を伝って来た者としては、目がぱちくりするような眩しい水田が広がる。

 「白山」が直江津駅に停車したのは、上野駅からちょうど4時間が経過し、半分程度の座席を占めている乗客にも長旅の気怠さが漂っていた。

 

『直江津に到着です。ここで進行方向が変わりますので、7分停車します』

 

という短い案内放送が流れ、僕は座席の向きを変えてからホームに降りてみた。

 

直江津駅は久しぶりだった。

子供の頃に車窓から眺めた時には、如何にも鉄道の要所らしく広い構内に圧倒された記憶があるけれども、改めて見回してみれば、古びたホームや、何本も敷き詰められた線路に変わりがある筈もないのに、

 

直江津駅ってこんなんだったっけ?──

 

と拍子抜けする。

子供の頃は、何でも大きく見えたのだろうか。

 

故郷を素知らぬ顔で通り過ぎてしまったことに、まだこだわりがあったけれども、遂に日本海側に来たのか、という新たな感慨が湧いてくる。

 

 

直江津を逆向きに発車すると、すぐにトンネルが断続する。

直江津と糸魚川の間は、フォッサマグナと糸魚川静岡構造線が交わる複雑な地形で、山塊が海ぎわまで張り出しているため、繰り返し土砂災害に悩まされたという。

この区間を一気にトンネルで貫く新線が完成したのは昭和44年であるから、金沢から長野に引っ越した急行「白山」で、僕は旧線を使ったことになる。


名立、頸城、木浦、浦本と4本のトンネルを続け様に抜けると、落石防止や防雪の設備なのか、坑口に仕切り板が格子のように一定間隔で貼られている箇所がある。

高速で疾走する「白山」の窓から眺めると、彼方に広がる青い海原や手前の草むらが、コマ送りの映画のように見える。

一瞬の出来事でありながら、子供の頃から、日本海のコマ送りを見るのが「白山」の楽しみの1つだった。

 

谷浜や能生といった「信州の海」と呼ばれる海水浴場も垣間見える。

海がない長野県では、この辺りへ海水浴に来る県民が多く、僕の小学校の臨海学校は谷浜、高校の臨海合宿は能生であった。

 

 

無骨な工場が目立つ姫川を渡り、糸魚川駅を発車した「白山」は、新潟と富山県境の名勝親不知・子不知に差しかかる。

 

子供の頃から、ここの車窓が「白山」の白眉だと決めていた。

トンネルの合間に見える海面が眼下に遠ざかり、下を覗き込める区間はないものの、断崖の上を走っていることがありありと想像できる。

青海駅から親不知駅を経て市振駅に至るこの区間も、直江津-糸魚川間に劣らず災害が多発したが、昭和40年に新親不知トンネルと新子不知トンネルを含む新線が建設され、「白山」は事もなげに通過する。

 

親不知・子不知越えは、平行する国道8号線の方が迫力がある。

金沢への家族旅行は車で往復したこともあり、未明に長野を発ち、親不知で夜明けを迎えることが多かった。

そそり立つ断崖の中腹にトンネルや洞門が連続する狭隘な道路で、黒い排気ガスを吐きながら、坂道でみるみる速度が落ちてしまう巨大なトラックばかりに囲まれ、大変な難所であることが子供心にも察せられて、息をつめながら車窓に見入ったものだった。

 

 

『今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れ侍れば、枕引き寄せて寝たる』

 

松尾芭蕉の「奥の細道」では短く触れられているだけだが、昔は、断崖の麓の波打ち際を張りつくように歩くより方法がなかったと聞く。

越後国へ流された平頼盛の妻が、京から夫を訪ねる途中に子供を波にさらわれて、

 

親知らず 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く

 

と歌った悲しい伝説が、親不知・子不知の由来である。

 

昭和63年に完成した北陸自動車道は、親不知・子不知の断崖を完全に迂回し、海上に張り出した高架橋で易々と越えてしまう。

橋脚の影響で海流が変化し、崖が削られてしまったため、旅人が命がけで越えた砂浜は跡形もなく消えてしまったという。

 

北陸道の橋脚は目障りではあるけれども、白い波頭の上を海鳥が舞う、早春の日本海の眺望には心が洗われた。

 

 

北陸本線に入った「白山」の走りは見違えるようである。

首都圏及び中京圏・関西圏と北陸を結ぶ重要幹線であると同時に、数々の難所を昭和30年~40年代の近代化工事で生まれ変わってからは、越後湯沢発着「はくたか」、新潟発着「北越」、名古屋・米原発着「しらさぎ」、大阪発着「雷鳥」といった在来線特急が、俊足を競い合うように行き交っている我が国有数の特急街道である。

 

首都圏に直行する特急は「白山」だけになってしまったが、本州を横断してきた疲れを見せることなく、小気味よいほどの走りっぷりである。

最高速度は時速120km、高速道路でもそれくらいの速度を出してしまう車が見受けられるけれども、鉄道は市街地を貫くことも多く、線路際を櫛の歯を引くように建物が過ぎ去っていく感触は、スピード感を殊更に煽る。

目まぐるしく街なかを駆け抜けると、こんもりとした屋敷林に囲まれた散居村が散在する砺波平野の単調な眺めが、眠気を誘う。

 

この日は、立山連峰が山襞までが手に取るように見えた。

 

 

富山と高岡を過ぎると、上野から乗り通して来たのは僕以外に何人いるのだろう、と数えたくなるような寂しい車中になった。

 

「白山」最後の見所は、能登半島の付け根で越えていく倶利伽羅峠である。

線路際に山肌が迫り、カーブもきつく、煉瓦積みの古びたトンネルも含めて、峠越えの雰囲気が満載である。

宮脇俊三氏は、処女作「時刻表2万キロ」の第1章で、富山発米原行きの特急「加越」に乗って倶利伽羅峠に差しかかる。

 

『トンネルを出て2キロほどの地点に倶利伽羅駅がある。

北陸本線屈指の小駅で、急行券なしで乗れる列車にさえ通過される気の毒な駅である。

が、駅名の魅力においては北陸本線随一だと私は思っている。

だから、いつもながら駅名標をしかと見ておきたい。

右側の窓に頬を近づけて待機していると、下り線との間隔が少し広くなったなと思うまもなく、特急電車は一気に通過する。

飛び去る駅名に合わせてすばやく首を振るようにすると、「くりから 倶利伽羅」という文字がはっきり見えた。

1つ、2つ、もう1つ見たいと思ったら、もう駅はなかった』

 

流し撮りのテクニックだな、と頬が緩む一節であるけれども、北陸を旅する者にとって、源平の古戦場としての歴史や、独特の漢字を当てた地名も含めて、強く印象に残る峠であるのは間違いない。

 

ただし、「平家物語」で倶利伽羅峠を知った者としては、北陸本線にしろ、国道8号線にしろ、実際に車窓から眺めた地形と合戦の描写が微妙に合致しないような気がしてならなかった。

木曽義仲が放った牛の大群に追い落とされて、

 

『平家一万八千騎、十余丈の倶利伽羅が谷をぞ馳埋みける』

 

と描かれたような深い谷がある峠には、どうしても見えないのである。

 

厳密に言うならば、北陸本線や国道8号線が通っているのは、昔の倶利伽羅峠の北に位置する天田峠である。

明治11年の明治天皇の北陸巡幸の際、倶利伽羅峠は輿が通れないため、天田峠が改修されたことで、以後は天田峠越えが国道となり、北陸本線も天田峠の下に倶利伽羅トンネルを掘削したのであるが、かつては補助機関車の連結を要する急勾配だったという。

昭和30年に勾配を緩和するための全長2459mの倶利伽羅トンネルが完成し、古いトンネルは国道8号線に流用されている。

 

 

東京から関東平野は高曇り、碓氷峠は曇っていたが、信州から富山にかけては快晴、そして倶利伽羅峠から西では、今にも泣き出しそうな雲行きになっていた。

猫の目のように変わる空模様の下を、「白山」は駆け抜けて来たのである。

 

『皆様、長らくの御乗車お疲れ様でございました。次は終点、金沢でございます。14時36分の到着です。あと4分少々で金沢でございます。どなたも車内にお忘れ物、落し物ございませんよう、お支度を願います。お出口は右側でございます。2番線に到着します。乗り換えの御案内を致します。小松、加賀温泉、福井方面へお越しの方、1番線にお越し下さい。大阪行きの特急「サンダーバード」30号、14時55分、19分の待ち合わせで、乗り場1番線です。米原方面名古屋行きの特急「しらさぎ」12号を御利用の方、15時04分です。28分の待ち合わせで2番線です。北陸本線上り各駅停車を御利用のお客様、大聖寺行き、20分の待ち合わせで14時56分です。3番線にお回り下さい。七尾線方面お越しの方、14時56分、各駅停車七尾行きに連絡です。20分の待ち合わせで5番乗り場です。七尾で、のと鉄道輪島行きに連絡します。本日はJR西日本を御利用下さいましてありがとうございました。次は終点金沢に着きます』

 

金沢平野に飛び出した「白山」が、速度を落としながら浅野川を渡り、古い街並みに囲まれた金沢駅に滑り込んだのは、上野から6時間06分が経過した14時36分、見事な定時運転であった。

 

 

終点だから、降りなければならない。

 

高架駅になって防雪ドームに覆われた金沢駅の佇まいも、489系車両の塗装も、前に乗車した時と全く異なっているけれども、生まれた土地に「白山」から降り立つ感慨に変わりはなかった。

ただ、旅の終焉をこれほど寂しく感じたことがなく、少しばかりうろたえた。

今回が、子供の頃から縁のあった「白山」に乗る最後になるのだろう、という予感が、不意に込み上げてきたのである。

 

ありがとう、そしてさようなら、「白山」──

 

 

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